その日は、もっと早く帰るつもりだった。そのつもりで、悟浄たちに悟空を預け1人で1時間ほど離れた寺まで使いに出かけたのだが・・・。結局、三仏神から預かった書類を届けるだけのはずが、せっかくだからと説法をせがまれ、それが終われば三蔵法師がこの寺に来ることなど滅多にないから少しお話だけでも、と茶を出され世間話とは名ばかりの相談に乗せられてしまった。
長と名の付くものは、やっぱり雑用係でしかないのだと、半分諦めにも似た思いで、振り子の牛のように頷き、時々一言二言口をはさんでやると、ようやく相手も満足したようだ。白々しく「あぁ、こんな時刻になってしまいましたね、お引止めして申し訳ありませんでした」などと、取って付けたような詫びを述べられ、ようやく三蔵は開放された。
そんなわけで、預けていた悟空を引き取りに、彼らの家に辿り着いたのは日もとっぷりと沈んだ頃だった。
ノックをすると、元気良くドアが開かれる。そこから飛び込んできた少年の笑顔。
「三蔵!、お帰り!!」
悟空の勢いに気おされて、ここは俺の家じゃねえ、というツッコミまでも飲み込んでしまった。その飲み込まれたはずのツッコミが少年の後ろから聞こえてくる。
「おいサル!お帰りじゃねーだろーが!!、いつからここはお前の家になったんだ?」
俺の家だっつーの!!。悟空の頭をその明るい茶色の髪の毛ごと大きな手ががしっと掴む。大きな手の持ち主である悟浄は、三蔵を一瞥すると、とりあえず入れば?と顎をしゃくった。
「お疲れ様でした、随分と遅かったですね」
リビングに通されると、室内に珈琲の芳しい香りがする。見慣れたカップを携えて、この家のもう1人の住人である八戒が三蔵の前にカップを置いた。その香りにつられ口をつける。一口飲んでひと心地ついて、寺で足止めを食らったと遅くなった理由を話す。結局、その日は八戒の勧めもあって悟空と一緒に一晩世話になることになった。
「じゃあ、ちょうど良い時刻ですし、ご飯にしましょうか。悟空、悟浄、三蔵、手を洗ってきてください」
多分、こうなることは予測していたのだろう。大量に作られた食事を囲んで賑やかな夕食が終わり、その後に酒を出されて、そのまま酒宴に突入した。ちょっとのことでも言い争いをしなければ気が済まないのかと思うほど、何かにつけお互いに突っかかっていく悟浄と悟空。それを穏やかな笑顔で宥める八戒。いつもの寺院での静かな食卓よりも、たまにあるこの家での食事の方が落ち着いている自分に、三蔵は戸惑いを覚えた。
「ようやく寝ましたよ」
夜も更けた頃、リビングに戻ってきた八戒がクスクスと笑いながら、三蔵の向かいに腰をかける。その呟きに、一度顔を上げた三蔵は八戒の笑顔をチラリと一瞥してから再び新聞に視線を落とした。
「珈琲」
「はい」
泊まると決まってから、悟空はいつにも増してはしゃぎだし、1人で寝るのはいやだとごね始めた。悟浄は普段のペースを乱すことなく、ほろ酔い気分で既に賭博場に出かけた後だったため八戒がお供に抜擢されたのだが、寝るまでが大変だった。気分が高潮した悟空は眠るまで、やれゲームだ、枕投げだと八戒を振り回す。ようやく八戒が開放されたのは、三蔵が「おやすみ」を聞いてから1時間ほど経った後だった。
迎えられた時に差し出されたカップと自分用らしきカップを手に、再び八戒がキッチンから出て来た。目の前に置かれたカップを手にとって、その琥珀色の液体を一口含み、新聞の記事に目を走らせる。そのまま、ぼそりと一言。
「ご苦労だったな」
一瞬、それが自分に向けられたものだとは気付かず、八戒はきょとんとして、その言葉を理解してから、もう一度不思議そうな表情を作った。
「何がですか?」
「一日世話になった」
一日寺院に篭もらせるよりはここに居た方が、寺のほうにも悟空自身にも精神衛生上良いだろうと預けてしまうのだが、それは、八戒と悟浄の協力が得られればこそだ。
「悟浄は兎も角、僕は悟空を迷惑だなんて思ったことはないですよ?」
もっとも、悟浄も彼に対しては、低レベルの争いをしているようで、かまって遊んでいるてらいがありますけどね。
碧の視線と、紫暗の視線がぶつかった。その時三蔵は、その碧の瞳に挑戦的な色があるのを感じた。
「もし、あなたが彼のことを面倒臭いと思っているのなら、僕達が預かっても良いですよ?。わざわざ遠回りして、悟空を預けに来たり、引取りに寄ったりしないだけ、手間も省けるんじゃないですか?。幸い、悟空も僕達に慣れていることですし」
二つのマグカップから、コーヒーの湯気が靄のように立ち上る。その向こうに八戒の碧の瞳。
一瞬。
言葉を失った。
確かに八戒の言うとおりなのだ。正直、この家は慶雲院から少し離れた場所にある。遠出をするたびにここに寄っては、時間のロスができるのは確かだ。だが、その生活を想像しようとしてうろたえた。
想像することができなかったのだ。
「どうします?三蔵。あなたさえ良ければ明日にでも悟空に・・・」
「いや」
カップを置くタン!という音がリビングに響く。
「三蔵?」
「その必要はない」
確かに、悟空のお陰で余計な手間は取らせられるし、聞かなくて良い他の坊主からの苦情は聞かなくちゃならねえし、余計な食費はかかるしで面倒なこともあるけれど。
「俺はその面倒臭さも嫌いじゃねえんだ」
意志を曲げない真っ直ぐな瞳。この最年少の最高僧は、出逢ったときから迷いのない真っ直ぐな瞳をしているなと、八戒はその瞳の強さに圧倒させられる。クスリと笑みを作ると、そうですかと呟いたまま、その話はもう蒸し返されることはなかった。
―――ごめんな、ワガママばかり言って―――
眠りに就くほんの一瞬、悟空の口から出た言葉。八戒がその真意を聞き出そうとした時には、既に幼い少年は深い寝息を立てていた。布団を顔の辺りまで引き上げてやりながら、その健やかな寝顔に自然と笑みがこぼれる。
「何を言い出すかと思ったら・・・」
わざわざ遠回りをしてまでここに悟空を預けに来る三蔵。なんだかんだ言いながら、この2人の客を嫌な顔をせずに迎える悟浄。そして、嬉しそうに出された食事を頬張る悟空を見るのが好きな自分。口には出さないだけで、この一見面倒臭そうな繋がりが実は自分達が気に入っているだろうことを八戒は知っていた。
それには、悟空というキーポイントが必要だということも。
この不器用な3人の間には、悟空という橋渡しが必要なのだ。 |