決して狭くはない建物だというのに、危うくぶつかりそうになったのは、お互いの所為。
「あっと・・・。ゴメン」
あまり悪びれた様子もなく、詫びの言葉を述べる少年、鋼の錬金術師・エドワードエルリックと、
「すいません・・・。って、大将じゃねーか!」
哀しいかな、中間職。相手が誰であろうと波風が立たないように即座に謝りの言葉を唇に乗せたが、その相手を認めていっぺんに相好を崩すジャン・ハボック。
東方司令部の廊下のど真ん中で出会い頭に衝突しそうになってしまった。
「ごめん、少尉。よそ見してたから気付くの遅くなって・・・」
「こっちこそ悪かったな、あんまり小さすぎて気付かなかった」
「誰が、虫眼鏡で見ないと見落としそうになるくらいのチビだー!!」
エルリック兄弟がイーストシティを離れてから、もう何ヶ月も経つと言うのに、彼らの言葉の応酬は毎日逢っている相手とのそれのようにぎこちなさがない。
もっとも、身長をだしに使われたエドワードの怒りは、日常茶飯事のことかも知れないが。
それでも、エドワードが別の誰かに同じようにからかわれたとしても、その誰かに向ける表情よりも自分に向けるものは、スキンシップの一環のように棘が少ないとハボック自身は思っている。
それに。
エドワード自身には決して言えないことだが、自分を見上げてぎゃんぎゃんと吠える少年は、まるで仔犬が威嚇をしているようでとても可愛らしい。ハボックは、この自分を見上げるエドワードの表情をとても気に入っているのだ。
「ところで、大将。いつこっちに来たんだ?」
今まで怒鳴っていたのが嘘のように、エドワードは怒りの表情を収め、真っ直ぐにハボックの顔を見上げた。
「んー。ついさっき着いたばっかり。暫く顔を出していなかったから、宿を探している間にこっちに挨拶に行って来いって、アルが」
相変わらず、しっかりものの弟だ。彼の右手にある分厚い紙の束を見止めて、どうやら、報告書の最終チェックを歩きながらしていたため、前方に注意が行かなかったのだろう、と判断した。
「これから、大佐のところか?」
『大佐』という言葉を聞いて、エドワードの眉間の皺が深くなった。
「いる?大佐」
「そりゃもう。あの人が、司令部から出られるのは、視察と会議の時だけっスから」
だからと言って、話題の男であるマスタング大佐が司令部にいる間仕事をしているか?と言うと、かなり疑問が残る。だが、そのことには彼の名誉のためにあえて伏せておいた。
「そっかー、いるんだぁ」
ひとりごちるエドワードの眉間の皺が深くなっていく。その表情を見下ろした、ハボックは、ふと、違和感を覚えた。
この表情は、嫌がっている。と言うよりは。
「大将は」
エドワードの金色の瞳が、再び目の前の男に向けられる。相変わらず、飄々としている捉えどころのない表情。
「大佐が、この東方司令部が嫌いなのか?」
エドワードは面食らった。いきなり何を言い出すのか?と。
「嫌いじゃないよ、むしろ好き」
迷いのない即答に、今度はハボックが面食らう。さらに『好き』という柔らかい感触に胸の奥でチクリ、と小さな針が刺さったような痛みを感じ、何かがざわざわと蠢いた。
「だって、ここの人達、皆良い人ばかりじゃん。中でもダントツで」
エドワードは一旦言葉を切り、悪戯っぽい眼で長身の男を見上げた。
「ホークアイ中尉とハボック少尉と一緒にいると、安心する」
先程まで感じていた胸の奥のざわざわが酷くなった。
「俺・・・っスか?」
「うん」
「なんでまた・・・」
最高潮に達したざわざわが消えたと思ったら、そこら中を走り回りたくなるような落ち着かない気分に変わっただけだった。さっきよりも、さらに性質が悪い。そんなハボックの心中など察する様子もなく、エドワードは、中尉には内緒だけど・・・。と言葉をつむいだ。
「中尉と一緒にいると、母さんと一緒にいるみたいなんだ。顔とかは似ていないのに、雰囲気が似てるのかな?」
それはきっと、女性の持っている母性本能のためだろう。実際、軍部の面々に接する時より、エルリック兄弟を目の前にしている時の方が、彼女の表情も柔らかい気がする。それは、納得がいく。
「で、少尉はね・・・」
エドワードの金色の視線がハボックのスカイブルーの瞳とぶつかった。金色の瞳に射すくめられたみたいだ。ハボックは、自分の心臓がどくん!と大きな音を立てたのを聞いた気がした。
「お兄ちゃんみたい」
「お兄ちゃん・・・?」
「そう。お兄ちゃん」
少年特有の屈託のない笑顔が向けられる。
「オレ、アルしかいないから良く分かんないけど、お兄ちゃんがいたらこんな感じだろうな、って思うんだ」
そりゃ、フュリー曹長も、ファルマン准尉も、ブレダ少尉もオレより年上だから、誰でも『お兄ちゃん』としての条件はクリアしてるんだけど、少尉が一番、オレの想像していたお兄ちゃんに近いかな?って・・・。
あぁ、そうか。とハボックは漠然と思った。
エドワードは、『兄』なのだ。
どんなにアルフォンスがしっかりしていても、最終決断をするのも、全ての責任を負うのも、兄であるエドワードにのしかかっているのだ。もっとも、アルフォンスがエドワードに甘えている、ということではない。この兄弟は、お互いを必要として、支え合って生きているのだから。
ただ、
当時11歳という年齢にしては、重すぎるものを背負いすぎてしまった。エドワードは、エドワードなりにその罪の全てを背負って今まで旅を続けていたのだろう。彼の笑顔が、時々年齢にそぐわしく無いように見えるのは、その所為だったのかも知れない。
ふ、と。あることに気付いた。
今挙げていった名前に1名入っていない人物がいる・・・。
「大佐は?」
エドワードの眉間に、再び皺が刻まれた。
「あ〜?、大佐ぁ〜?」
「大佐の方がもっと年上だろ?」
「ヤなこと、思い出させないでよ、少尉」
眉間の皺を貼り付けたまま、金色の視線があちこちに泳ぎだす。
「あんなイヤミ臭いお兄ちゃんなんて、マジ勘弁」
今までのエドワードらしくない。先程の違和感の正体が、もう少しで見付けられそうだ、と思った時、
「言ってくれるじゃないか、鋼の」
第三者の声がハボックの背後から聞こえた。エドワードをこの呼び名で呼ぶのは、たった1人。
「げ!、大佐!」
「受付嬢から君の来館を聞いたのに、中々来ないものだから、こちらから迎えに来てあげたよ」
エドワードがハボックの背後を覗き込むようにした次の瞬間、露骨に嫌そうな顔になる。来なくて良い!と騒ぐエドワードには全く構わず、渦中の人物・マスタング大佐は、ハボックの横を通りすぎエドワードの金色の髪に覆われた頭を軽く叩く。
「私は、君にとって安心できる存在ではないのかね?。つれないね、鋼の。」
「アンタに弱味見せるくらいだったら、牛乳攻めに遭った方がまだマシだね。離せよ、クソ大佐」
突然現れた上司の存在に、今までお互いの間に流れていた柔らかい空気がかき乱される。それと同時に、先程のエドワードに覚えた違和感の正体が、突然分かってしまった。
きっと、周りの人間は勿論、この少年自身もその対象になっている上司も、その事に気付いていない。多分気付いているのは、自分1人か、細かい気遣いのできる中尉の2人のみだろう。
「悪かったな、大将。急いでいたところ、引き止めちまって」
「こっちこそ。少尉も急いでいたんだろ?、ごめんな」
「ヤニが切れたから、買いに行こうとしていただけ。気にしなくてもいいっスよ」
それだけを告げると、彼ら2人に背中を向けて軽く手を振り、外へ繋がるドアへと向かった。
ドアノブをひねり扉を開けると、明るい陽の光が彼のプラチナ色の髪に降り注いだ。開放的な戸外の空気を吸って、今まで心の中で鬱々していたモノがまるで夢から覚めたように、ぼんやりと記憶の彼方に霞んでいく。
「何を考えているんだ?俺は」
そのつい先ほどまでの霞んでいく記憶の中に、痛いモノがあったことにも無理やり気付かないように蓋をする。
大佐の話をするエドワードに覚えた違和感。なんだかんだ言いながら、15歳の少年の来館を心待ちにしている男。ひとりとひとりが接近すると、他の者には入り込めない空気。
きっと、お互いがお互いに好意を持っている所為だろう。
それは、『好意』と一言では言ってしまってはいけないくらい深いもの。エドワードに覚えた違和感は、何事にも恐れない彼らしくなく緊張しているのを感じたためだった。
だが今は、どちらともそんな簡単な自分の感情の正体というものに気付けないでいる。
大佐と、エドワードと、ハボック。3人の中でその『感情』に一番聡かったのは、ハボックだった。近くの売店に向かって歩を進めながら、参ったなあとぼやいた。
「気付いた途端に失恋かよ、俺」
今まで。
地位も、権力も、金も自分より持っている上司に対して、うらやむことはあっても嫉妬をすることはなかった。片想いの女性を掠め取られた時にも、嘆きはするが、心の何処かで彼になら仕方がない。という思いもないとは言い切れなかった。結局、上司である彼を誇りに思っていて、憧れすらあるのだから。
初めて、彼に対して言い表せないドロドロとした感情を抱いた。 だが、あの少年が自分に向けた言葉と笑顔を思い出した。
「お兄ちゃん、か」
これは、これだけは、あの人にも持てない特権。焔のような熱さではなく、こんな光のような暖かさで、あの小さくて、強がっていて、純粋な少年を包むことが出来るのだ。 自分に勝ち目はなくとも、この特権を行使出来るのなら『お兄ちゃん』のポジションでも悪くない。
「つーか」
俺、ボイン大好きだったはずなんだけどな。
どこで道を間違えたのか。
きっかけなんて分からないけれど。
いつの間にか。
気付かない内に、太陽のような金色に惹かれていたのだ。 |