特別な存在
 「アリス」
学生時代からの友人である彼から発せられる、私の名前。
 それが妙にくすぐったい響きを持つようになったのは、いつ頃からだろうか。



 缶詰になってまで仕上げた原稿をほうほうの体で提出できたのは、締め切り日当日の昼頃のことだった。ホテルのラウンジで待ち合わせた担当は私の向かいに座って最終チェックを行っている。
「確かに。お疲れ様でした」
 片桐のややくたびれた笑顔を認めて、私はほぅ、と安堵のため息をついた。以前は、「カンヅメなんて、俺もいっぱしの小説家の仲間入りや」と勘違いをして悦に入っていたが、締め切り直前の数日間を思うと、もうこんな苦しみは味わいたくない、としみじみと思う。
 原稿を受け取って、ハイさよなら、というほど期限ギリギリではないのだろう、片桐も目の前にある珈琲にようやく口をつけた。
「有栖川さん、カンヅメするためだけに上京するんじゃなく、たまには観光でいらしてくださいよ」
話しやすい相手な分、痛いところを突かれた。
「こっちもそうしたいのは山々なんですけどね。片桐さん、今度取材旅行行きませんか?」
 たった今、長編の原稿が終わったばかりで早速新しい構想が浮かぶわけもない、相手もそれを承知しているようで、はいまた新しい作品ができたら言ってくださいね、とあしらわれた。
「次の新作も、ぜひうちでお願いしますね、先生!」
「なんや、片桐さんに先生なんて呼ばれると、裏がありそうでつい勘ぐってしまうなぁ」
 デビュー当時からの私の担当で、年もあまり変わらない彼は、いつの間にか「先生」から「有栖川さん」と呼ぶようになっていた。
「先生と言えば・・・」
 ひとしきり笑った後、片桐が話の転換を試みる。
「火村先生はお元気ですか?」
 片桐と火村は、私を通じて何度か顔を合わせている。お互いに、「知人の知人」程度の関係である。
「カンヅメの前日にちょこっと電話で話しました。風邪はひいていないな、程度しか分かりません」
 京都で教鞭を取る友人と、大阪で執筆活動に精を出す私とでは、しばらく逢わないこともままある。
 もっとも。
 同じ市内に住んでいるのに、2ヶ月に1度しか顔を合わせないという人達もいるだろうから、それに比べればまだ頻度は高いかもしれないが。
 珈琲の風味を味わいながら彼の話が出て、無性に逢いたくなった。缶詰から開放されたのを理由に、近いうちに食事の誘いでもしてみようか。そんなことをまだ寝不足のため回転が鈍い頭でぼんやりと考えていると、向かいで片桐が話を続けていた。
「火村先生と有栖川さんって、確か学生時代からのお知り合いなんですよね」
「えぇ、そうです」
「じゃあ、学生時代のご友人には、有栖川さんはアリスって呼ばれていたんですか?」
ふ、と思考が止まった。
 珈琲カップを宙に浮かせたままの私に怪訝な顔で、片桐が声を掛ける。
「あぁ、すんません。そう言えば、アリスってあだ名は、火村しか呼んでへんなあ、と今思っていたところです」
「火村先生だけなんですか?」
「もっとも、彼は下の名前じゃなくて『有栖川』が長ったらしくて、短くしたつもりの呼び名だと言っていますが」
 火村はそう言うけれど、
 それでも
 彼に自分の名前が呼ばれるのは、悪い気がしない。

 こんな妙ちきりんな名前を付けられたが、それを呼んでくれる彼の声は、とても安心できるから。

 頭の回転が鈍いと、普段考えないことまで考えてしまう。はっと我に返り、照れ隠しの笑みを浮かべて言い訳めいたような台詞を続けた。
「火村があんまり、私の名前を呼ぶものだから、第三者を交えて話をしている時に『有栖川』と呼ばれると、なんだか変な気分ですよ。それが当たり前なんですが、なんや、他人行儀で新鮮って言うか・・・」
 向かいに座る片桐は、一瞬きょとんとしてから、にっこりと笑った。
「それはつまり」
火村先生にとって、有栖川さんは特別ってことなんですね。
何でもないことの様に、爆弾を投下された。
 一瞬火照った顔をおしぼりで押さえてから、私はそれじゃあ。と席を立つ。それをきっかけに、担当は出来上がったばかりの原稿と、伝票を手に取り「何かあったら、連絡しますから」と告げて、上機嫌でホテルの出口へ向かった。
 それを、恨めしく見送りながら『特別』という言葉を反芻する。

 もしかしたら、火村にとっては何でもない呼び方なのだと思う。

 それでも、

 私にとって、彼だけに許した呼び方であり、それを紡ぐ彼の声がとても気持ちがいいと思う。



 部屋に戻ったら、荷物をまとめて駅に向かおう。
 京都行きのチケットを買おう。
 その前に。
 今夜の予定を、私にとっておいてもらえるように彼に連絡を入れなければ。



 今、無性に特別な友人に逢いたくなった。
 アリス小説第1作目(や、そのご2.3と続くかは私にも謎ですが・・・)。
 「乱鴉の島」であまりにも「有栖川」の呼び方が気になったので、勢いで書きなぐってました。

 ・・・・・・・・・・・。

 
登場人物(しかも、ご本人様と同じ名前だ)をホ○に仕上げてしまってすいません、先生!!

 これでも愛はあるんですー、ヨゴレた愛ですが・・・。
 実は、片桐さんの設定もありますが、ご想像に・・・ごにょごにょ。
(2006.10.07UP)