その日、篠宮宅の電話がけたたましく鳴ったのは、宵も更けてきた頃だった。 「火村先生、お電話ですよ」 火村と呼ばれたこの下宿のたった一人の店子である彼は、部屋を出てすれ違いがてら、この人の良い老婦人を真夜中に起こしてしまったことを詫びる。すると、相手はさほど気分を害した様子もなく、ほほと笑って「電話の向こうでも、謝られてしまいましたわ」と言い置き、自室に戻って行った。 それを見送り電話の前に来てから、火村は相手の名前を聞くのを忘れたな、と思い至った。英都大学で教鞭を取りがてら、フィールドワークと称して近辺で難解な事件が起きれば、警察に助言をして事件解決の手助けもしている。こんな時刻の電話なら、警察からの連絡かも知れない。度々起きるようだったら、やはり大家にも迷惑が掛かってしまう。携帯電話をできるだけ早めに購入しよう、と思いつつ受話器を取った。 「もしもし、お待たせしました」 果たして電話の相手は、いつも連絡をくれる警察関係者のどの声にも当てはまらなかった。 「火村、寝てたか?」 「アリス?」 聞こえてきたのは、学生時代からの腐れ縁である、有栖川有栖という一風変わった名前を持つ友人のものだった。その声を認め、火村の口調もかなりフランクなものに変化する。 「お前、ばあちゃんに迷惑を掛けるじゃねぇか。どこからかけてきてんだよ?」 「うん、俺もばあちゃんには悪いことをしたも思うてる」 ばあちゃん怒ってはった?などと子供が親のご機嫌を伺うようなことを訊かれてしまい、「お前、いくつだ?」というツッコミを、つい心の中でしてしまった。 「いや、怒ってはいなかったけど。お前、確か今週がヤマだとか言ってなかったか?」 推理作家を生業にしている彼は、確か修羅場の真っ最中だったはずだ。とうとうネタに詰まり、気分転換の相手でも探していたのだろうか?。思ったままを訊ねると、「失礼なこと言いなや、エピローグどころか後書きまで済ませたわ」と即座に返ってきた。どうやら、創作活動は良好らしい。 「で、締め切りが今日やったから、自分の足で東京まで届けに来たんやけど」 「それはそれは、ご苦労なことだな」 「俺が遅い所為やから、仕方ないやろ」 「お前じゃねぇよ。ご苦労なのは、遅刻魔の担当で時計を見ながらヤキモキしていた片桐さんだ」 普段だったら、ここで上手い切り返しが来る筈なのだが、どうやら相手は虫の居所が悪いらしい。「うっさいわ!」の一言で切り捨てられてしまった。 「原稿が無事にあがったのに、えらくご機嫌が斜めだな、何があった?」 恐らく、こんな非常識な時刻の電話もそのためだろう。火村は、長い話になりそうだなと、自室に煙草を置いてきてしまったことを後悔しつつも、アリスの言葉に耳を傾けた。 「せや、東京まで来たんはええんや。聞いてくれ。そして、俺と一緒に怒りを共有してくれ」 アリスの怒りの原因は、数時間前まで遡る。 原稿を出版社に届け、とりあえず締め切りは無事守られた。ビルを出てから、ほっとした所為か喉が渇いたので、近くの喫茶店に入り珈琲を注文する。 期日どおりに仕上がるというのは、当たり前のことではあるのだが、とても気分が良い。今日は東京に一泊して、久しぶりに神田辺りをブラブラと巡ろうと、爽やかな気持ちで出された珈琲を啜っていた。 後ろの席で響く豪快な笑い声まで、清々しい。話の内容は良く分からないが、どうやら後ろの3人連れの1人は生粋の江戸っ子のようだ。方言は違えども、下町らしいその口調は普段地元で聞いているものと同じ威勢のよさを感じさせる。 聞くとはなしに、3人の言葉に耳を傾けていたのだが、段々アリスは違和感を覚えてきた。 幼い頃習わなかっただろうか? ―――目上の人には、敬語で話しましょう。――― 確かに社会に出てからは、1歳2歳の歳の差など無いに等しく、下手をすれば自分より年上の人が後輩になることだってありうる。それは自由業であるアリスにだって分かっていることだ。 だが、例え敬語を使わなくても良い相手でも、30歳近くの歳の差があれば、自然に相手を敬う言葉遣いになるのではないだろうか?。 アリスは、窓の外の景色を見る振りをして後ろの3人組を窺った。 自分と背合わせになって座っている下町言葉を話す男の年齢は分からないが、恐らく60歳くらいだろうと推測される。その向かいに座るあとの2人は、どう見積もっても自分くらいか、それより年下だろう。 その2人のうちの1人、ひょろりと背の高い方の男は終始笑顔を絶やさず、言葉遣いも好感が持てる青年だった。それは良い。 だが、もう1人の背の低い方の男。 前髪が長い所為で表情は分からないが、暗い性格ではないようだ、何故なら、話す言葉に迷いが無い。はっきりとした物言いにも好感が持てる。 でも、限度というものがあるやろ! いったん気になりだし始めると、無視を決め込むのは難しい。アリスは、後ろの会話が自分の機嫌を段々と下降させているのを感じた。そして、とうとうそれが限界点まで達したと感じた時、椅子から立ち上がって後ろのテーブルまで踏み込んでいってしまった。 「失礼しますけど」 いきなり声を掛けられ2人は、きょとんとしてアリスを見上げる。東京とは明らかに違うイントネーションで声を掛けられ、呆気に取られているという感じだ。前髪男は、我関せずと珈琲を啜っている。ようやく、背の高い方の男性が口を開いた。 「あの・・・。何か?」 「あなたではなく、隣の君!。失礼やないですか?」 珈琲カップをソーサーに戻し、男はまっすぐにアリスの眼を見た。そして一言。 「おれは『君』じゃない、鳥井真一って名前を持っている。お前こそ、名乗りもせずに難癖をつけるのは、失礼じゃないのか?」 鳥井と名乗る男の言うことは理に適っているだけに、更にアリスの怒りを増幅させた。初対面なので外見上はともかく、心中は腸が煮えくり返っているアリスは、とりあえず簡単に名前だけを名乗り話を進めた。 「鳥井くん、余計なお世話かもしれないけど、言わせて貰いたい。年上の御仁にその言葉遣いは失礼やないか?」 「年上の御仁・・・。栄三郎のことか?、有栖川」 「あ!、ありすがわ?!」 「おれは、個人の名前を呼ぶことにしている。有栖川で不満なら有栖」 「なお悪いわ!!」 彼、鳥井の言葉を聞かなければ、相手の目を見て話すその態度は、ものすごく好感が持てる。それ故に、一度口を開いて出てくる台詞とのギャップに怒りが沸いて来るのだ。 アリスは自分に心の中で冷静に努めるようなだめながら、その後ウェイトレスに声を掛けられて店を出るまでの時間、鳥井と対峙したのだった。 火村は時々質問を交えながら、興奮しマシンガンのように捲くし立てるアリスの文句を聞いてやっていた。やっぱり煙草は持ってきてから彼の話相手をするべきだった。 「でな、鳥井やなくて、他の2人、坂木さんと木村さんが俺を宥めに来るんや。言われている当の本人、木村さんにまで「真ちゃんはこういう奴なんだよ、有栖川さんの気分を害してしまったのは悪いけれど、わしが気にしてないって言ってんだから、落ち着いてくれないかねぇ」て・・・」 「アリス、お前、江戸っ子口調下手だなあ」 「それは、今関係ない!。そんなわけで、今日の優雅なアフタヌーンがパァや!!」 何がアフタヌーンだよ、と思いながらも、とりあえず心の中だけに留めておく。電話の相手は一通り話し終わってようやく落ち着き始めたらしい。 「分かった。お前は、その不躾な鳥井某の言動への怒りに震えている、とそういうことだな」 「そうや!」 電話越しにも分かる、アリスの「さぁ、俺と一緒に怒ってくれ」と訴えかけているオーラ。だが、明日は1時限目から講義があるのだ、火村は眠さで出て来そうになる欠伸をかみ殺した。 「で、午後いっぱい怒っていたのに、何で、今の時刻の電話なんだ?」 そんな長い時間腹を立てていたのなら、もっと早い時刻に電話してきてくれても良さそうなものを・・・。 そう火村が問うと、そこで本日初めてアリスの口調が、歯切れの悪いものになった。 「それが・・・。店を出てから、暫くは腹を立ててねんけど、神田で古書店巡りしているうちに一度は怒りが治まったんや」 「ほう?」 「でな、今寝ようと思ってベッドに入ったところで、も一回思い出して・・・」 「怒り再燃で、俺のところに電話か」 ばあちゃんを起こしてまで、と追い打ちをかけると、電話の向こうで「悪かった」と呟く声が聞こえた。いじめるのはこのくらいで止しておこう。彼の性格を考えれば、この一件はアリスなら怒って当然だとは思うから。 怒りというのは、当事者でない限り少しは落ち着いて分析できるものだ。だが、アリスの怒っていることについても理解している。火村は1拍息を吐いてから、できるだけ労わるようにアリスの名前を呼んだ。 「お前の言いたいことも、お前の気持ちも分かった。明日こっちに来たら、・・・そうだな、6時に京都駅で落ち合おう。脱稿のお祝いと、今日の文句の続きを聞くから。一緒に飯でもどうだ?」 「お祝いってことは奢ってくれるんか?」 「今回はな」 食いたいもの考えておけよと、続けると、言いたいことを言い終わり、スッキリしたところでタダ飯の誘いで、アリスの気持ちも上向きになったようだ。 「おおきに。夜分遅くにごめんな」 「最初にそれを聞きたかったよ。じゃあ、明日な。お休みアリス、良い夢を」 就寝の挨拶を交わし、電話は切れた。 怒りのボルテージというのは、相当なエネルギーだな。部屋に戻り、キャメルに火を点けて一息吐いた。アリスの文句を聞いているだけで、かなり体力を消耗してしまったがする。 だが、何かを共有すべき相手として自分を思い出してくれたことは、素直に嬉しかった。 少々の身体的な疲れと、精神的な満足。今夜は、良く眠れそうだ。火村は、短くなった煙草を灰皿に押し付け、電気を消した。 |