ゴールデンウィークが終了して間もない日に、友人が私の研究室を訪ねて来た。 有栖川有栖という奇妙な名前のこの友人との関係は、この大学で知り合って道は違えども卒業後も続いていた。転勤族の家庭で育ったことや諸々の理由で、人間関係が希薄な自分にとってはかなり珍しいことだとは自覚している。 研究室に入るなり「お疲れさん」という間の抜けた挨拶で迎えられた。ちょうど彼がここを尋ねてきた時、私は講義の真っ最中で不在だったのだ。鍵が開いていたから良かったようなものの、施錠されていたらドアの前で待っているつもりだったのだろうか?、前もって連絡ぐらいすれば良いものをと思いながらも、それでこそアリスだと思ってしまう辺り、自分はこの友人に甘いのかもしれない。 一方、研究室に無断で入ったアリスは、勝手知ったる何とやらで来客用のカップにコーヒーを淹れ、これまた私の本棚から物色したものを来客用のソファにどっかりと腰を下ろして読んでいた。 そんな友人のぞんざいな態度を目の端に捉えながら、机に先ほどの講義で使ったテキストや資料を置くと、自分用にコーヒーを淹れアリスの向かいのソファに腰を下ろした。 「何時来たんだ?」 「10分くらい前や、先生の講義の邪魔をしてはあかんと思て、まっすぐこっち来た」 そう答えると、今まで手に持っていた書籍を閉じた。ジャンルを問わず本好きなアリスは、読み始めると周りが気にならなくなるのが常なのだが、今日はあまり真剣に目を通していたわけではないらしい、その手に持っているものを本棚に返しながら昼飯はまだか?と問うて来た。そうだと答えると、ようやく私の顔を真っ直ぐに見て笑顔を浮かべた。 「ほな、学食に行こうか?」 学生食堂はまだ講義が終わったばかりの時刻のためか、そこそこ空いていたので労せず窓際の席を確保することができた。 本日のランチをトレイに載せて席に戻ると、向かいに座るアリスのトレイにはカレーが一皿乗っていた。 「なんだ、カレーか?」 「今日は、カレーの気分だったんや」 聞けば、無性に母校の学食のカレーが食べたくなって車を走らせてきたとのこと。 「それでわざわざ京都まで?」 「あかんか?」 友人はカレーのルウとライスを程よくスプーンに載せて口に運びながら、目線だけを私に向けてきた。こういう一歩間違えるとオヤジくさい(十分オヤジな年齢なのだが)仕草も、彼がやると何故か子供っぽく見えてしまう。それが、34歳には見えない原因かもしれない。私は、アジのフライにソースをかけながら、「嫌味っぽい」と称される笑みを浮かべた。 「「そうだ、京都に行こう」か?、どこかの旅行会社みたいだな。うらやましいぜ、自由業。そんなこと言って、原稿の進み具合がカメ並に鈍くなって逃げて来たんじゃないのか?、先生」 「締め切りはまだ先やし今回はテーマが決まっているから、トリックさえ閃けばサラサラっと書ける筈や」 「その、トリックが決まっていないのが問題だろ?」 アリス表情が一変、眉間にしわを寄せ、難しい顔でスプーンでカレーを無駄に混ぜていく。痛いところを突いてしまったらしい。 「ええんや、まだ締め切りは先なんやから」 「また片桐さん泣かせにならないように、せいぜい頑張れよ」 ヤケクソのようにカレーをかき込んでいくアリスを見て、自然と口角が上がるのを感じた。それ以降この話題はなかったことにして、最近のお互いの近況や読んだ本の感想など、他愛のない話で時間を潰した。 窓から差す光はのどかだし、向かいに座る友人は昔と同じ笑顔を浮かべる。まるで時間を遡って学生時代に戻ったような錯覚に陥るほど、穏やかな時間だった。 昼休みの時間が終わりに近づき午後の講義の時刻が迫ってきた。それを察してか、時計をチラリと見てからアリスがトレイを持って席を立つ。 「ほな、帰るわ」 「なんだ、本当にカレーを食うのが目的だったのか」 「初めに言うたやろ、無性に学食のカレーが食べたくなったって」 ここのカレーは特別なんや、と意味ありげな笑顔を浮かべて、友人は来た時と同じく気まぐれに食堂を後にした。 アリスは、ここのカレーは特別だと言うが、所詮学食メニュー。飛びぬけて美味いわけではないのにな、と首をかしげながらも、トレイを返却口に持って行き。午後の講義の準備をすべく私も学食を出た。 去り際にアリスが言わんとしていた事を、正しく理解したのは午後の講義が始まってからだった。 昼食後すぐの講義は、胃がこなれて正直瞼が重くなる時間だ。階段教室ではあっても教卓からは学生の様子が良く分かる。教えてもらう立場の学生も眠気と戦っているのを感じるが、実は教える立場の私も眠い。 始まって15分くらい過ぎた頃に、眠気を吹き飛ばそうと視線を上げ、それを見つけた。 階段教室の一番後ろの窓際。 明らかに自分の講義とは関係のないペンの走らせ方をしている学生がいた。必死になって何かしらを書き込んでは、一枚一枚真っ白な紙を黒く染め上げている。 この光景を、私は以前にも見たことがある。この教卓ではなく、彼のすぐ近く、隣で。 「先生?、火村先生?」 目の前に座る女子学生が、言葉が途切れたのを不審に思って恐る恐る声を掛けてきた。我に返り、2.3度頭を振る。 「あぁ、すまない。ところで今日は何日だったかな?」 いよいよヤバイと感じたのか、心配そうな顔つきで先ほどの学生が7日ですけど?と答える。 彼女に礼を言ってから講義を続けたが、私の頭の中は別のことを考えていた。 アリスがいきなり大学を尋ねてきた理由。 学食のカレーが食べたくなった理由。 ここのカレーが特別な理由。 |
「この続きはどうなるんだ?」 「あっと驚く展開が待っているんや」 「ふぅん、気になるな」 「ほんまか?」 「アブソルートリー」 |
あの日から、有栖川有栖と知り合ってから、ずいぶん長い時間を過ごした。正直、ここだけの付き合いだと思っていた彼とまだ友人関係が続いている。それを嬉しいと感じているのは、私だけではなかったということか。 何となく心が温かくなり、再びあの席に視線を向けると、そこには誰も座っていなかった。まるで白昼夢のように忽然と。 もしかしたら、過去の幻影だったのかも知れない、と講義を続けながら自分らしくないことを考えていた。 神を信じる気にはならないけれど。 有栖川有栖と出逢わせてくれた何かに、感謝したいと思った。 |