桜の季節が終わり、空が夏に向かって澄んだ青に変わる頃のことだった。
貧乏道場といえど、というよりは、道場主である近藤の性格所以だろう、庭にこいのぼりが上げられる。
毎年、大きなこいのぼりを納戸から出してきて、虫干しをしながら『端午の節句は、男の子のお祭なんだぞ』と近藤はかかと笑う。
総悟は1年ごとに同じことを繰り返す近藤の言葉を聞きながら、その手伝いをするのが大好きだった。
大好きな近藤と二人でお祭の準備をするという、非日常のワクワク感がたまらなく嬉しかったのだ。
ただ。
今年は、邪魔者がひとり。
大きなこいのぼりを干すのも、それを上げる高い竿を立てるのも、小さな自分が手伝うより近藤と同じくらい背丈も力もある奴がやった方が、楽なのは分かっている。分かっているけれど、やっぱり面白くない。
「沖田センパイ。眉間に皺寄ってますよー」
「うるせーぞ、新入り。渋い顔ってヤツを研究中だ。ジャマすんなィ」
物干竿から下ろした黒い布の魚を抱えながら、その鯉と同じ髪の色をした仏頂面の後輩が見下ろし話しかけてきた。
センパイを見下ろすとは、良い度胸だ。どうやら面白くない気持ちが顔に出てしまったらしい。総悟は、左右の眉を外側に引っ張って、皺を伸ばし、なんでもない風を装う。その様子を見て、新入りがまた「おもしれー顔」とチャチャを入れてきたので、今度は、向う脛を草履の裏で蹴ってやった。「イテッ!」という声と、黒い着流しに付いた小さな足跡を見て胸の中がちょっとスッとした。
近藤家のこいのぼりは、毎日夕方に片付けて、朝再び上げる。手間はかかるが、その方が知らない間に風雨に晒される心配がないからと。稽古の始めと終わりに上げ下げをするのも仕事のひとつになっていた。
その日も、稽古の前にこいのぼりを空に泳がせていた。
大きなふたりがこいのぼりを上げているのを、総悟はかしわの葉で包まれた菓子に齧り付きながら見上げる。
初夏の風にあおられて、鯉たちが済んだ空の中をのびのびと泳ぎ始めた。
「端午の節句は、男の子のお祭なんだぞ!」
総悟の複雑な心中など知らずに、近藤は風に泳ぐこいのぼりを見上げながら、また楽しそうに言った。
「この中で『男の子』と言えるのは、総悟だけだなぁ」
こいのぼりから視線を落として、総悟に笑顔を向ける。それを見上げる総悟の目に映るのは、曇りのない近藤の笑顔とその後ろに広がる青い空。
この季節の澄んだ空は近藤ととてもよく似ている、大きなところがそっくりだ。このふたつが対になっている印象は、総悟が見上げる先にいつも同時に映るからなのか、それとも本当に似ている所為なのか。総悟には分からなくなっているけれど、どっちも同じくらい好きだから、どうでも良い。
「トシも俺も、もう男の子と言うには、無理がある年齢だもんなぁ」
総悟に向かっていた視線は、今度は黒髪の男に向けられた。近藤が昼の青空なら、この男は夜の闇だと思う。まったく実態が掴めない辺りがそっくりだ。
だから、コイツの分のかしわ餅は俺が食ってやる。大好きな姉上が作ったかしわ餅、こいつにやることはない。そう勝手に結論付けて、総悟は二つ目のかしわ餅に手を伸ばした。
「そうだな、・・・今日でまたひとつ、年取ったしな」
言うつもりはなく、ポロリと出てしまったという感じで呟かれた言葉。あいにく、総悟の耳にも近藤の耳にも届いてしまった。
「え?トシ、今日が誕生日なの?」
近藤の声に、土方はしまったという表情を浮かべて、空を仰ぎ見る。
「水臭いじゃねーか、なんで言わないんだよ」
「いや、別に祝ってもらった記憶もないしな。俺にとってはそれが当たり前だったし」
言い訳にもならない言葉を重ねていると、土方の目の前に白いものが飛んできた。
「ヘぶ!」
白い物体に気を取られていると、たたた。と軽い足音が遠ざかって行く。それがかしわ餅だと分かった時には、そこに付いた小さな歯形の持ち主は、その場から消えてしまっていた。
「あのクソガキ・・!」
吐き捨てる土方の耳に、大きな笑い声が聞こえた。
「良かったなあ、トシ」
「何が良いもんか。食いかけだぜ、コレ」
「だってミツバ殿手作りのかしわ餅だろ?」
言われて見れば、市販のそれとは違う。噛り付いた所から覗く餡子には、紅茶色の中に、普通はないはずの赤いものが混じっている。
良心的な辛さには抑えてあるけれど、間違いなくミツバお手製の唐辛子入りの餡子が包まれたかしわ餅だった。
「大好きなミツバ殿が作った物を、渡し方は兎も角くれたんだから。あいつなりにお祝いしたかったんじゃないのか?。姉弟2人だけの家だから、あの家も誕生日とかには縁がなかったから。総悟なりに気を使ったんだと思うよ」
いきなり当日に誕生日って言われても準備もできないしな。
「そんなわけで、今日はこどもの日のお祝いと、トシの誕生日祝い、やるぞ!」
大きな手で背中を思い切り叩かれた。
今まで、ひとりで生きてきた。ここにも長いこと居付かないと自分でも思っていた。
それでも。
こんなことの積み重ねで、少しでも温かい気持ちになれるから。
大きな背中を見つめ、やっぱりこの人には敵わないと、諦めではない溜息を吐いた。
「副長!」
目の前に、湯飲みをどん。と置かれ。土方は2.3度瞬きを繰り返した。
「アレ?、山崎?」
「アレ。じゃないですよ。かしわ餅持ったままトリップするの止めて下さい」
キモいです。と続けられた言葉にちょっとカチンと来たが、確かに顔が緩んでいたと自覚はあったので、今日のところは不問とした。命拾いしたな、山崎。
周りを覗えば、土方がいるのは武州の近藤家の庭ではなく、真選組の副長室で、5月5日のお祝いとして、休憩時にかしわ餅が出されたところだった。
あれから、髪の長さも身に着けている物も立場も呼び名も変わったが、相変わらず局長は「端午の節句は、男の子のお祝いなんだぞ」と馬鹿のひとつ覚えのように言い、大型連休のクソ忙しい時にもこのおやつは毎年出された。
再び、土方は手の中の菓子を見つめる。
あの時の総悟の本心は、結局分からなかった。
だけど、恐らく近藤の言ったことで大体は合っているんじゃないか、と段々と思えてきた。
表面には見え辛いけれど、あいつなりの譲歩、あいつなりの優しさが分かるようになれば、段々と本質は見えてくる。
それが分かるようになるほど、彼らとの付き合いが長くなった。
一生の内に、魂で付き合える相手が2人もできた。
それが何よりの、自分へのプレゼントなんじゃないか、手の中のかしわ餅を見て、そんな柄にもないことを思った。 |