ここ最近の暑さは尋常じゃない、と事務所のソファに寝そべったまま坂田銀時は心の中で毒づいた。
その耳に聞こえるのは、隣の台所で換気扇の音とそれに消されそうになりながらも微かに聞こえる何かを刻む音。今日の昼飯は下の階からおすそ分けで頂いた蕎麦だと言っていたから、多分葱を刻む音だろう。この夏は、家屋の中にいても熱中症に罹るらしい。中でも台所はテキメンだと、結野アナが言っていたなあと、彼女の笑顔を思い出して、知らず口角が上がる。
結野アナの笑顔は、やはり良い。その口から『あんまり暑いからって、アイスやジュースなど甘い物ばかり食べるのは控えて下さい。血中糖度が上がって、ポックリイッちゃっても自己責任です』などという表情とは連結しない内容であったとしてもやはり良い。しかし、彼女の笑顔をもってしても、この灼熱の暑さはいかんともし難いのも現実。
テーブルを挟んだ向かいを見れば、同じような格好で神楽がぐったりと伸びている。その隣では、白い狛犬がその大きな尻尾をセンスのように仰いでいた。
しかし、生ぬるい空気がゆらゆら動くだけで、涼しさは感じられない。その生ぬるい風を体に受けながら、少女は体を動かすのもおっくうで、そのまま眠ってしまったらしい。
よっこらしょなどというオヤジ臭い掛け声と共に銀時は、自分の温もりを十二分に溜め込んだソファから立ち上がった。
台所を覗くと、果たして新八の後ろ姿が見えた。
銀時は、フラフラとその隣にある冷蔵庫に吸い寄せられるように向かい、扉を開ける。
「うひょー、涼しー」
流れ出してきた冷気で涼を堪能していると、彼を押しのけるように黒髪の少年が冷蔵庫と銀時の間に割って入ってきた。
「銀さん、冷蔵庫に涼しさ求めるのやめて下さいよ。どんだけ電気代がかかるか分かってるんですか?」
「そんなみみっちいこと言うなよ、貧乏人じゃあるまいし」
ドリンクホルダーから、お徳用のめんつゆのボトルが取り出され、冷気を発する扉は無情にも新八の手によってバタンと閉められる。胡乱気に見上げる黒い瞳が銀時を映した。
「そんなに金有り余っているって言うなら、僕の今月分の給料払えよ。甲斐性ナシ」
「そーだ、あまりの暑さに、飲み物取りに来たんだ」
「おい、話聞いてんのか?、天パ」
この二人の間では、こんな会話も日常茶飯事。それが分かっているから新八はふうと一つ溜息を吐くと、無駄な会話を終了させた。
「結野アナに今朝言われたばかりじゃないですか、甘い物摂り過ぎないでって」
「ぱっつぁん。俺が飲んでいるのは、ジュースじゃなくていちご牛乳。結野アナの言うことは守りますよー」
暖簾に腕押し状態の銀時のセリフに新八は二度目の溜息を吐くと、じゃあ、せめてこのブリックパックにして下さいと、水で薄めためんつゆが入ったガラスの器を冷蔵庫に戻して、代わりにピンクの箱を取り出し、銀時に押し付ける。
これ以上ここにいればますます藪から蛇を出しそうだと判断した銀時は、おとなしくその小箱を持って台所から退散した。
ソファにすわって、苺の絵が書いてあるその箱にストローを突き刺す。
中身を一息に吸い込んで
吹いた。
「なんじゃこりゃア!」
目指すは、数分前までいた台所。
というより、そこにいる少年。
「オイ、新八!」
「何ですか?」
入り口を潜れば、先ほどと同じ情景が移る。換気扇の下で鍋が噴きこぼれないように見張りをしている後ろ姿。
まだ発達途中の細いうなじには、蒸気と熱気で噴出した汗の粒ができていて、暑そうだなと一瞬目が行ったが今はそれどころじゃない。
「お前、俺になんてもの押し付けやがるんだ!」
その剣幕に、ようやく新八が銀時に視線を向けた。
「何って…、いちご味ですよ?。銀さんが好きな」
「俺が好きなのは、いちごはいちごでもいちご牛乳!。豆乳じゃねーんだよ!」
印篭のようにかざしたその小箱には、『豆乳』の二文字がしっかりと刻まれていたのだった。
「ビックリしたよ、これ甘くねーんだもん。一気に暑さも忘れるほどの驚きだよ」
「良かったじゃないですか、灼熱地獄から解放されたんなら」
「なんだか、豆の味するし」
「豆乳ですからね」
「味、淡白だし」
「今度、オカラ買ってきますね、ガッツリ大豆の味堪能できますよ」
「そういうこと言ってんじゃねーんだよ!」
わかんだろ?!とトドメの一撃をさせば、その間ずっと鍋を見張っていた新八が、コンロの火を止め菜箸を置いた。カタンという固い音が聞こえる。
先ほどのようなうんざりとした表情ではなく、まっすぐに見返す瞳。さらに、湯気で曇ってしまうので眼鏡を外していたのか、普段は間に挟まれるレンズの反射がない。
ダイレクトに銀時の目を見つめ返すいつもとは違う瞳の色に、一瞬銀時がたじろいた。
「銀さん…」
「なん、だよ」
「心配なんですよ。あんなに糖分が高い飲み物ばっかりがぶ飲みして。結野アナじゃなくてもポックリイッちゃうんじゃないかって感じますもん」
「新八くん?」
「でも、銀さんから大好物を取り上げるなんてできないし」
「いや、あの…」
「だから、せめて、体に良さそうな豆乳で我慢して貰おうって…」
徐々に視線が落ちて俯いていく少年の姿を見るのは、どうもよろしくない。何がとは言いづらいのだが、よろしくない。いい大人が子供を苛めているみたいではないか。
どうやら、とどめ刺されたのは自分らしいと気付いた時にはすでに遅し。
「分かったよ」
「銀さん?」
汗をかいたため、湿気でまとまらないぼさぼさの銀髪をガシガシとかきながら銀時が折れた。
「冷蔵庫に入れて置けば、三回に一回くらいは豆乳チョイスするから」
項垂れていた新八の顔が上がり、ぱあっと笑顔を浮かべた。
「はい!」
「甘いアル…」
そのやり取りを、銀時の叫び声で目覚めた神楽が聞きとめてぼそりと呟いた。
「甘々ネ、銀ちゃん」
新八とスーパーに行った時に、見てしまったその光景。
片手にいちご牛乳、片手に豆乳いちご味。それを見比べて冷ケースをじっくりと見た後、新八は豆乳を籠に入れた。
その後、神楽はさり気なくドリンクコーナーへ戻り、あの時の新八の視線を思い浮かべて何を見ていたかを確認する。そして納得した。
明らかに、ブリックパックの方が安かった。しかも、一本の量が決まっているから大量に飲まれる心配もない。
「私は、男に騙されないように気をつけて、良い女になるネ」
それが、かぶき町の女王としての務めネとうんうんと頷く。
その後ろでは、何を思っているのかはまったくわからないが、そもそも彼らの会話を理解したのかすら怪しい定春が、無邪気な顔で返事をするようにわんと吠えた。
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