ホワイトデー小噺
 夏に比べると、技術的なものより体力作りの方がメニューの中心に来るため、朝錬は勿論、午後の部活もそれほど長い時間が掛からずに終了してしまう。2月頃よりも、日が長くなってきた所為もあって、まだ薄らと、太陽の気配が残る時刻に本日の練習は終了した。
 また、長期休暇には入れば、夏大会に向けてのメニューに徐々に変わっていくだろう。しかし、まだまだ練習し足りないと騒いでいる田島の声を聞きながら、それぞれに帰り支度を始めていた。
 準備が整ったメンバーから、それぞれに挨拶を交わして、部室を出て行く。今、ここに残っているのは、百枝と篠岡に用事があって、彼女達を探していたため着替えるのが遅くなってしまった、花井と栄口それから阿部、他のメンバーと同じ時刻に戻ってきたくせに、相変わらず動作が遅い三橋の4人だけだった。





 栄口も阿部もそろそろ準備が出来、もう下校できそうだ。カギ当番である花井は、2人を先に帰らせようと口を開こうとした時、阿部が三橋に声を掛けた。
「おい、三橋」
右袖のボタンと格闘していた三橋は、弾かれたように、阿部の顔を見上げる。その様子を見て、4月頃は目が合わない奴だったのにあ、と三橋の成長を母親のように微笑ましく栄口が眺める。
 今でも、オドオドしている感は否めないが。
「な・なに?、阿部くん」
 三橋の着替えが遅いのは、いつものこと。弟がいる所為でお兄ちゃん気質の阿部は、そんな三橋に我慢できないらしく、文句を言いながらも手を出してくることがある。口調の悪さほどには、扱いが粗雑でないことを知っているので、こんな時、三橋は「お兄ちゃんて良いなあ」と思うのだ。
 だか、今日は違った。
 授業用の鞄と、部活用のスポーツバックを抱えて、今にも部室から出られそうな状態の阿部がぽそりと一言。
「口、開けろ」
「ほえ?!」
 殴られる時に「歯ァ食いしばれ」というのは、漫画で見たことがある。だから、殴られるわけではないのは理解できたが、口を開けろというのは、一体何をされるのだろう。それまで2人の様子をそれとはなく眺めていた、キャプテンと、副キャプテンも呆気に取られた顔をしている。
「な・なんで?」
「良いから口開けろって言ってんだよ!、ついでに目も閉じろ!」
注文がさらに多くなってしまった。元々短気な阿部が、早口でまくし立てる。傍観者も、その阿部の雰囲気に声を掛けるべきだが、掛けづらいといった状態になってしまっていた。
 これ以上、阿部を怒らせるよりは、素直に従った方が良いだろう。阿部は、短気だが、自分や、部活にとってマイナスになるようなことをする人間ではない、そう判断して、ぎゅっと目を瞑ったまま口を開ける。

 コロン

 歯が何かに当たる軽い音がしたと同時に、口の中に甘酸っぱい味が広がった。現状が把握できないまま目を開いてしまった三橋の目に映ったのは、「お疲れ」と呟いて、部室を出て行く阿部の後ろ姿だった。
 着替えている途中で、まだズボンにしまわれていないシャツの裾で包まれるように乗せられているのは、今口の中に入っているものと同じものだろう。

 いちごの酸味と甘いミルク味の懐かしい菓子を味わいながら、何故、自分にだけ差し入れが来たのか分からない三橋の耳に、その場に立ち会わされた他の2人が本日のイヴェントのことを話していることなど、届くことはなかった。

 チョコレートのお返しが来る3月14日。
 たった一粒のチョコレートのお返しであることを三橋は知らない。
 可哀想な、花井と栄口・・・。
 2005年の2/14の日記は、アベミハSSだったんですが、その1ヶ月後の話です。
 バレンタインの方はウッカリ消しちゃったんですが、思い出したらUPします・・・。

(2006.3.14UP/4.06移行)