ここに居ること。
 「さみ〜」
 かたり。と音がして、ふと、碧の瞳を上げると、丁度この家の主がぎこちなくドアを閉めるところだった。彼が入って来た瞬間、家の中と外の空気が繋がる。たったそれだけの時間なのに先程より室内の温度が下がった気がしたのは気のせいではないだろう。
「おかえりなさい、悟浄」
 外気との気温の変化について行けず、悟浄と呼ばれた男がドアの前で犬のようにブルンと身体をすくませ、声を掛けられた方へ頭をねじって視線を向けた。留守を預かっていた青年のふわりとした笑顔が春ののどかさを連想させる。その笑顔の持ち主、八戒の雰囲気と、暖められた部屋とが伴って悟浄は自分の身体が暖まって行くのを感じた。それと同時に、それまでの胸の中に蟠っていたイヤな気分も払拭された気がする。
「ずいぶん早かったんじゃないですか?」
碧の瞳が時計を見上げると、まだ出掛けてから2.3時間しか経っていなかった。この、町から離れた住まいからの移動時間を差し引くと、悟浄が賭博場にいたのは長くても、1時間30分前後と思われる。
「んー。何となくさ、冷え込みがひどくなる前に帰ろうと思って…」
普段だったら、早く暖を取ろうと暖房のあるリビングに直行してくるはずの悟浄が、今日に限って寝室へ繋がるドアに向かっていく。しかも、前かがみになって身体の前にある何かを隠しているようだ。具合でも悪いのだろうか?今日、出掛ける前に一緒に食事を摂った八戒は本日のメニューを思い出し、何も悪くなっていただろう物はないと思い直した。それに、先程の受け答えは普段と変わりなかったし・・・。訝しく感じた八戒が、膝の上に広げたページに栞を挟んで閉じ、腰を上げていまだ寝室へ続くドアを開けられずに悪戦苦闘している紅い髪をたらした背中へ歩み寄った。
「ドア、開けましょうか?」
「!!!」
それまで、腕が使えず中々開けられないドアに神経を集中させていたため、八戒が後ろまで近づいていたことに気付かなかった。思わず、身体全体をくるりと向けてしまった。
「・・・・・。すごい数ですね、プレゼントですか?」
 腕の中の色とりどりにラッピングされた箱たち。その一つ一つが一番に自分が目立とうと強く主張しているように感じられる。色も大きさもバラバラで、それらを落とさないようにバランスを取りながら持って帰って来たため、身体が前かがみになっていたようだ。その量に驚いて目を瞠る八戒に悟浄は、ぎこちなく笑顔を返した。
「そ。大人気よ、俺サマ」
「モテ過ぎるのも大変ですね」
ノブを回してドアを開け、悟浄に笑顔で入室を促す。サンキュ、と言いながらそそくさと寝室へ入っていく。ドアを閉めてから、入り口に小さな紙が落ちていることに気付いた。どうやらカードらしい、プレゼントのどれかから落ちてしまったものだろう。拾い上げて、悟浄に返すつもりでノックをしようとした右手がドアを叩く寸前止まってしまった。
 読むつもりはなかったのだ。ただ、拾い上げたカードが表向きになっており、意識しなくても読めてしまうくらいの短い一言しか書かれてなかっただけのこと。
――― HAPPY BIRTHDAY!―――
 隔てられたドアの前で八戒は、小さなカードに視線を落としたまま、立ち尽くしてしまった。



 「俺にとって、誕生日は『そんなこと』でしかないんだ」
 何週間か前、背中に叩きつけられた台詞。その理由もあの何日か後に彼の口から教えて貰った。それを知った上で、自分はあのプレゼントの贈り主達と同じ台詞を言えるだろうか?
 女性に人気のある悟浄のことだから、おそらく店に入った途端、常連の女性達からプレゼント攻撃に遭ったのだろう。プレゼントには、物だけでなく贈った相手の心も込められている。彼の性格上、それを突っ返すわけにも行かず、結局ここまで持って帰ってきてしまった。そんな情景が浮かんで、知らず口元に笑みを浮かべてしまった。
「ホント、僕とは違って優しい人だから・・・」
 幼い頃、自分は差し伸べられた愛情を全て拒否して生きてきた。与えられずに生まれて来たなら、そんなものはなくても構わないと思っていたから。しかし、悟浄の場合は自分とは違う気がした。
 悟浄の優しさは、相手を全て包み込もうとする、安心させるようなもの。その雰囲気と、どこか寂しげな紅い瞳。それは、求めても、求めても、でも、どうしても与えられなくて。それでも何とか手に入れたい、そんな風に足掻いて生きてきたように感じるのだ。
 悟浄にとって彼の誕生日は、すなわち自分の養母を傷つける存在が産まれた日でしかないのだろう。自分をその瞳に映さず、その腕に抱きとめもしないハハオヤの背中へ、何かを求めて見つめつづける幼い悟浄の姿が思い浮かぶ。
 何も言わず、何も訊かず得体の知れない自分を家に置いてくれた。事情を知った上で、それでも自分をかくまってくれようとした。ずうずうしくも、再び姿を見せた自分を当たり前のように迎えてくれた。悟浄には今までたくさんの物を貰っているはずなのに、そんな彼に対して何もできない己の力不足が悔しかった。
 八戒は椅子に座ったまま、渡せずに手元に残ってしまったカードを見つめる。しばらくそうしていたが、意を決したように帰ってきてから、いまだ開かないドアへ視線を移した。
「僕のエゴを貫き通させて貰いましょう」
 そして、再び悟浄の寝室の前に立つとノックをするべく右手を上げた。



 ノックの音がして、顔を上げる。
 やはり、こんな日に出掛けるもんじゃなかった。今ごろ悔やんでしまっても遅いとは分かっていても、そう思わずにいられない。帰ってきた途端、テーブルの上にオンナ達から押し付けられた箱を無造作に置き、そのままベッドに突っ伏していたのだ。ドアに視線を向けると、控えめな八戒の声が聞こえてきた。
「悟浄、今いいですか?」
あぁ、と一言呟くように答え、ベッドに座りなおす。静かにドアを開け痩身の青年が部屋に滑り込んできた。体重を乗せたため皺の寄ったベッドからつけられていない暖房へと視線を移しながら、すまなそうに眉をしかめた。
「あぁ、すいません。寝ていましたか?」
「いんや、ゴロゴロしていただけだから・・・」
あのまま寝たら、ひどい夢を見る。母さんは、また俺に斧を振りかざすだろう。兄貴は、また母さんを殺し、哀しそうな瞳で俺を見つめるだろう。終わらない、見せつけられる家族の末路。その原因がどこにあるかが分かっているだけに、出来れば目を逸らしていたかった。自分の弱さが晒し出される。
「んで?なんか用」
暖房をつけて椅子に座った八戒を紅い瞳に映す。八戒は小さなカードをすっとテーブルに置いた。
「さっき、落ちましたよ」
ベッドから腰を上げてテーブルに近づきそのカードを見て顔が強張った。今日、あちこちで言われ続けた言葉が書かれたカード。ぎこちなく視線を拾った相手に戻すと、相変わらずの笑顔が浮かんでいる。しかし、どこか寂しそうに見えるのは、気のせいだろうか?
「悟浄、誕生日今日だったんですね」
「・・・あぁ」
しばらく、沈黙が続く。この間をどうやって埋めていいか分からず、ポケットを探りハイライトを取り出す。ライターの石を擦る音が静かな室内に響いた。「悟浄」と静かに声をかけられて視線を戻すと、目を伏せた八戒が映った。綺麗な碧が隠れたのはその一瞬のみで、再び視線を上げた八戒の瞳には、迷いは見られない。真っ直ぐに紅い髪に囲まれた端正な顔を見つめる。悟浄は碧の瞳に見つめられて、視線をそらすことが出来なくなる。
「生まれて来てくれて、有難うございます」
 僕の存在を認め、受け止めてくれた。今の生活以外、僕の人生は今のところは考えられません。この人生を与えてくれた貴方が誕生したこの日は、僕にとっては『おめでとう』より、『有難う』が妥当だと思いますが?
 せっかく点けた煙草を吸うのも忘れて左手の煙草は少しずつ灰になっていく。紅い瞳に映った彼の顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
 『おめでとう』でなく『有難う』。認められたがっていた自分の負ではない正の存在を認める言葉。彼は悟浄がこの世界に居てくれたことを歓迎してくれたのだ。
 何も返すことが出来なくて、項垂れて自分の爪先に視線を落とした。重力に従って髪がさらりと流れ視界に入る。そのままの姿勢で止まってしまった悟浄の耳に、八戒の気遣った声が聞こえてきた。
「すいません。事情を知っている僕がこんなことを言うなんて。でも、どうしても今日貴方に言いたかったんです」
貴方に逢えて、僕がどれだけ救われたか、知って欲しかったんです。
 どうやっても視界に入ってくる紅い髪の色。この髪の色は消せないが、彼の『有難う』の一言でそれでも良いや、と思える自分が可笑しくなった。くくっと喉の奥で笑いながら「いーや」と顔を上げて八戒に笑みを見せる。
「サンキュ」
 彼独特の紅い瞳には無理している様子は感じられず、八戒の表情にも安心したような表情が浮かんだ。
「すいません、今日は何も用意していないんですよ。貴方には贈り物を貰ったのに・・・」
明日、夕飯をちょっと豪華にしましょうか。と提案すると、悟浄はにやりと笑って了承し、ようやく煙草を咥えて大きく吸い込んだ。いつもの二人の雰囲気が室内を覆った。そこで八戒が退室すべく席を立つ。
おやすみなさい、とドアを開けたままの姿勢で何かを思い出したように八戒が頭だけ室内に戻して、煙草を灰皿に押し付けている悟浄を呼んだ。
「来年覚悟していてくださいね」
笑顔でそれだけ告げると、再度おやすみなさいと呟きドアが閉じられる。
 一方部屋に残された悟浄は、呼ばれたときの体勢のまま止まってしまっていた。誕生日を知ったからには、何か当日に企画をするつもりでもあるのか。それは、来年の今日が来れば分かることなのかもしれない。とりあえず、今年は哀しい夢を見ずに眠れそうだ。そう判断して先程までの来訪者に感謝しつつ、暖房の火を落としベッドに潜り込んだ。
 消えかかっている暖房のオレンジ色の穏やかな光が、この日紅い瞳が最後に映した色だった。
 ご無沙汰振りのノベルの部屋更新です。悟浄さんの誕生日記念。
 悟浄さんの幼少時代を考えると、「おめでとう」じゃないですよね。などと思いながらUP。
 そんでもって、何やら八戒さんが意味ありげなことを言っているようですが、私本人としましては、「何も考えておりません」。
 八戒さん、何をするのか私に教えてくださいませ(本気)
 (2002.11.9UP)