その日の朝、甘ったるい香りに包まれて目を覚ました。
彼は決して寝起きが悪いわけではない。確かに、起床の時刻は遅いが、元々の就寝の時刻が遅いので、自然と生活のサイクルがずれているだけなのだ。寝起きが悪いわけではないが、この香りで起こされるというのは、朝っぱらから胃もたれを起こしそうでゲンナリしてしまう。ぴったりとしまったドアからもこの香りが彼の自室に流れてくる、と言うことは果たしてドアを開けたらどんな状態になっているのだろうか。寝覚めの悪さに再びベッドに突っ伏してしまいそうになる赤毛の頭を無理やり持ち上げて、彼はその家中に香りを撒き散らしている張本人に挨拶をすべく、思い切ってリビングに繋がるドアを開いた。
「おはようございます、悟浄」
予想通り、ドアを開けた事を一瞬後悔してしまいそうになるほど、家中がまるでお菓子の家になったような香りが漂っていた。ようやくリビングに辿り着くと、細身の青年が珍しくエプロンなどつけて調理をしている。鍋つかみに包まれた彼の手にはオーブンの鉄板が握られており、目の前の皿には、こんもりとこげ茶色や狐色の物体が盛られていた。この甘い匂いの正体はこれだろう。
とりあえず挨拶を返し、皿の上の物体を仇でも見るように見下ろしながら訊ねた。
「はよ・・・。なに?サルでも遊びに来るの?」
「え?昨日、確認したじゃないですか?」
「は?」
どうも、話がかみ合わない。紅い髪をガシガシとかき混ぜながら、目の前で鉄板を持ったままきょとんとしている八戒を眇めて見やる。不思議そうに口を開いた八戒の答えを聞いて、今度は悟浄がきょとんとする番だった。
「これは、貴方に持って行ってもらう分ですよ?」
昨日、僕訊きましたよね?「明日は町に出掛けますか?」って・・・。
そう言われてみれば確かに昨日の夜、八戒に今日の予定を尋ねられたと思い当たった。いつもはそんな事をしない彼が、突然何を言い出すのか?と不思議に感じたが、それと、この菓子の山はどう繋がるのか、今ひとつピンと来ない。
まだ、意味がよく分かっていない表情の悟浄を目の前に、八戒は「やれやれ」とひとつため息をついて、確認をするように訊ねててきた。
「今日が何日だかわかっていますか?」
「3月の14日だろ?・・・。あ・・・」
「気付いてくれました?ホワイトデーです」
タネ明かしをされて、悟浄の脳裏にひと月前の災難が思い出された。それと一緒に、その日からしばらくの間家中に漂っていた甘いカカオの香りまでよみがえってしまい、慌ててハイライトを取り出し火を点ける。
「お返し・・・、か・・・」
「とりあえず、クッキー・キャンディー・マシュマロ辺りが定番で決まっていますがね。マシュマロは兎も角、キャンディーなんて黒糖飴とか、きな粉飴ぐらいしか作り方知らないので、一番作りやすいクッキーにしました」
お店で買ってしまったのでは、お菓子屋さんの陰謀に嵌まったようでちょっと腑に落ちませんから、と言われてなるほどとようやく納得した。よくよく見れば、荒熱を取ったと思われるクッキーが袋に入れられてリボンで口を縛られている。
八戒は空になった鉄板をキッチンに持って行ったたかと思うと、しばらくしてからタイマーをセットする音が聞こえた。どうやら新しい生地を焼いているようだ。悟浄はややぐったりしながら短くなった煙草を灰皿に押し付けると、歯磨きと身支度を済ませようと自室に戻る。着替えが終わった頃に、甘い香りを消すように珈琲の香りが漂ってきた。
再びリビングに戻ると、珈琲がテーブルの上に乗っている。チーン!と可愛らしい音が聞こえ先ほどの生地が焼きあがったのを知らせる。再びタイマーの音が聞こえたかと思うと、ようやく八戒が手にトレイを持って姿を現した。
「すいません、今トーストを焼いてますから」
そう言いながら、サラダの小鉢とプレーンオムレツを載せた皿を目の前に置く。さらに、小皿に焼きたてのクッキーを乗せて添えた。
「良かったらいかがです?焼き立てなので、美味しいんじゃないかと思いますが・・・」
笑顔でそう勧められ悟浄は一瞬詰まってしまった。八戒の料理の腕は信用しているが、勧められたものが悪かった。
「いや、俺は甘いものは・・・」
「そう言わずに。一口で良いですから、お返しの品がどんなものだったのか知っておいてもバチは当たりませんよ?」
八戒の細い指が小皿から出来たてのクッキーを一枚とって、悟浄の口元に持っていく。ここまでされて、さらに八戒の表情は笑顔のままだ。一種の脅迫である。悟浄は珈琲を一口含んでから、渋々口を開けた。
さくっ。
「・・・・・。」
「いかがですか?」
「・・・。小麦粉と砂糖の味がする」
「そんな何処かのマンガに出てくる洋菓子屋のオーナーみたいなこと言わないで下さい」
悟空だってもっと気の効いた感想がいえますよ、と少々がっかりしたような声で言われてしまったが仕方がない。悟空と一緒にする方が間違っている。
そんなやりとりをしている間に焼きあがったトーストを腹に収めている間も、八戒はお返し作りを続けていた。そして、悟浄が出掛ける頃には、カゴいっぱいのクッキーが出来上がっていた。
「お前・・・。お菓子屋さんもできるよ」
とりあえず、今日一日の甘い匂いの我が家とはこれでおさらばだ。晴れ晴れとした表情で出掛けようとドアを開けた瞬間にカゴを押し付けられた。
「それじゃあ、悟浄。大変でしょうけれど、お願いします」
「あ・・・」
「これが僕が先月頂いた方々と貴方にと頼まれた方々のリストです」
紅いリボンが貴方用、碧のリボンが僕用のお返しですから。と小さなメモ用紙も押し付けてくる。
「すいません、お願いしますね。女性の方々も僕より貴方から貰った方がきっと喜ぶでしょうから・・・」
さらに懇願されて、断りきれなくなってしまった。これだけの量を1人でラッピングまで済ませた八戒の労力を考えると、顔見知りに渡すぐらいの手間は引き受けなければならないだろう。カゴを八戒から受け取りつつ、来年の2月14日は絶対に誰からも受け取らないと決心した。
だんだん小さくなっていく悟浄の後ろ姿を見送りながら、八戒はもう一度「すいません」と呟いた。
「だって、あんな大量のお菓子を町中持ち歩くなんて、僕恥ずかしくって・・・」
八戒は気付いてない。
自分よりも悟浄の方が、可愛らしくラッピングされたクッキーを入れたカゴがとてつもなくミスマッチだということに。 |