それは、ほんの偶然だったのだと思う。
三蔵からこの仕事の依頼を聞いた時、文句をこぼしている悟浄の隣で、普段ならそんな悟浄を宥めて依頼を引き受けるはずの八戒が一瞬だけ表情が強張らせた。
「・・・。どうした、嫌なのか?」
その一瞬の変化を見付けた三蔵が目を眇めて八戒を見やる。一方尋ねられた八戒の方は、口角を引き上げて笑顔を作り、三蔵の目を真っ直ぐに見返した。
「・・・。いえ、何でもないです。三蔵、この仕事はいつまでに仕上げれば良いですか?」
碧の瞳に真っ直ぐに見返された三蔵の紫暗の瞳が再び書類に視線を落とす。
「そうだな・・・。出来れば早く、と言ったところだ」
「そうですか。分かりました」
大丈夫ですよね、悟浄。そう言って、隣に立つ男に確認を取る。悟浄はもう一度書類を見直して、その仕事が思ったより難しくないであろう事を確認すると、渋々といった様子で頷いた。
「報酬の方よろしくねん、三蔵さまv」
差し出された書類を受け取って、悟浄が執務室を出て行く。
「八戒」
悟浄の後を続いて部屋を出ようとした八戒を三蔵の声が引き止める。ノブを手にしたまま八戒が上半身を捻って、三蔵の方に視線を向け、次の言葉を待った。
「本当に、良いんだな?」
その確認のような問いに、八戒は小さく嘆息した。
「やっぱり、気付いていたんじゃないですか。仕事は仕事です、引き受けます」
「あぁ」
その答えを聞いて、三蔵は無表情のまま机上にあったマルボロを手に取り火を点けた。執務室の中を嗅ぎ慣れた香りが広がる。その一連の動作が終わるのを待っていたかのように一呼吸置いて、八戒は言葉を続けた。
「それにしても、三蔵。
この依頼を僕達に持って来たのは、僕を試すためですか?それとも・・・」
「ただの偶然ということにしておけ」
用は終わったとばかりに、目の前の書類に視線を落とす。そんな三蔵の様子に、八戒は再びため息をこぼすとドアを押し開け執務室を後にした。
一週間後、八戒と悟浄はジープの上にいた。
―――ジープで2時間ほど南に下った村に「寺院の使い」を名乗った盗賊団が出没するという噂がある。その真偽を確かめ、もしもそれが本当であったなら、それを始末する―――。それが、今回の依頼内容であった。
「しっかし・・・」
助手席でハイライトを銜えたままの悟浄が穏やかな青空を見上げながら独りごちる。
「『始末』っつーのは、一体どこまでが許されるのかねぇ・・・?」
ぷはあ、と吐いた煙が風に流れて後方へ置き去りにされていく。煙草の先にできた灰を、常備している(と言うより、「同居人に持たされた」と言った方が正しい)携帯灰皿を取り出し、そこへ軽く叩いて灰を落とした。
「・・・・・・・・・」
「八戒?」
「え?、あ、はい?」
すいません、ボーっとしてました。と横目で悟浄を視界にとらえて笑顔を作りなんですか?と、問い返した。それを見止めた悟浄は、まだ長さのあるハイライトを携帯灰皿に押し込み、新しいものを取り出して火を点けた。
「んや。大したことない。なんでもねー」
煙を吐き出すと同時にぼやく。
三蔵からの依頼内容を聞いてから、八戒の様子がおかしいのは、悟浄も気付いていた。ぼんやりとしている。と言うか、心を何処かに置き去りにしている、と言うか・・・。
理由が今回の仕事であるのは、薄々とは感じている。しかし、それを訊き出すのはなにか拙いことなのかも知れないと思うと、聞き出すことも出来ずに結局今日に至る。
同居を始めて、約一年。お互いのことは、結構分かってきたと思っていたのだが、それが自惚れに過ぎなかったと知らされるのは、こんな時なのかもしれない。
それから、お互いに会話をすることもなく二人を乗せたジープは、南に下って行った。
「え?そんな噂はない?」
目的の村に着いて、まず噂の真意を確かめようと食堂に入り、食後のお茶を運んできた女将を捕まえて訊ねた。こういう所には様々な人が出入りするから、何かしらは知っているだろうと踏んだのだが・・・。
「やだねぇ、長安ではそんな噂が広まっているのかい?。確かにこの村は昔よりは寂れたけど、盗賊なんてものは、ここ数年見ちゃあいないよ」
空いた皿を片付けながら、その性格を表しているような大柄な女性は目を丸くしている。確かに、周りの人々の様子を窺うと小さな村ながらも、皆陽気に食事を楽しんでおり、盗賊に襲われているような暗い影は窺えない。
「悟浄、今回の仕事は完了ですね。食事が済んだら帰りましょうか?」
ホッとしたような表情で八戒がそう提案する。その笑顔になぜか違和感を覚えて悟浄は、紅い髪をがしがしとかき混ぜながらもう一度地図を開いた。
「場所、間違ったかなあ・・・」
今すぐにでも仕事を終わらせて帰りたがる八戒と、念を押して確認をしている悟浄。いつもと立場が逆になっているのも悟浄は気付いている。それがまた面白くなくて何故か諦めきれなかった。
そんな二人の様子を眺めていた女将がふと、何かを思い出したように呟いた。
「そう言えば」
どくん!
僅かに声を潜めて女将は言葉を続けた。
「最近の話じゃないんだけどね…」
どくん!、どくん!。女将の声と一緒に誰かの心臓の音が聞こえる。
「1年ちょっと前、盗賊じゃなくて、たった一人の男が隣の村をほぼ全滅させちまったって話だよ。その理由って言うのが、なんだか可哀想な話でさ・・・」
どくん、どくん。どくん!。耳鳴りがどんどん大きくなってくる。
「あんた達、百眼魔王って妖怪知ってるかい?」
―――たん!―――
一瞬。
時間が、止まった気がした。
ゆるゆると、紅い瞳を向かいに座る青年に向ける。その先に、八戒の姿があった。
俯いたままで、表情は窺えない。しかし、たった今テーブルに叩きつけた茶碗をぎゅっと握り締める手は元々の白さを通り越して青白くなっている。
「・・・。すいません、悟浄。僕、先に出ていますね」
かろうじて、気を失う、などという醜態は晒さないでいられたようだ。ようやくそれだけを呟くと、固まってしまった右手から茶碗をもぎ取った。ゆっくりと立ち上がり、一歩一歩確かめるように出口に向かって歩いていく。扉に体重を乗せるように押し開けて、店の外に脱出した。
いきなりの八戒の変わり様に、女将の方が恐縮してしまった。こわごわと、悟浄を窺う。
「・・・・・・。お客さん、アタシ、お連れさんになにか拙いこと言っちまったのかい?」
たった今、八戒が出て行った扉を見つめていた悟浄は、気遣うような女将の言葉に、取り繕った笑顔を向けて、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
「いや、アイツ酒に弱いから、匂いに当てられただけだろ?ご馳走さん」
勘定を済ませると、先ほど出て行った連れを追いかけるように扉を開け、店の外に消えた。
店の外に停めてあったジープの運転席で蹲っている影を見付けた。その鉄の乗り物に近付き、黙って助手席に腰を落とす。視界を閉ざしている八戒の耳に、しばらくゴソゴソしていた音が聞こえ、石を擦る音とともに嗅ぎ慣れた煙草の匂いが漂ってきた。
「さっきの、隣村の話って・・・」
4本目の煙草を手に取りながら悟浄がそろそろと呟いた。
「この世で、僕以外にそんな狂気染みた事をした人が居るのなら、一度お目にかかりたいものです」
何とか、平静を保ちつつある八戒の自虐めいた笑みが、ハンドルと肩の間から窺える。まるでスクリーンの向こう側にいるようだ。以前にもそんなことがあったと、悟浄はイライラを募らせる。あの雨の日、自分の姿を見止めたために、八戒はまたこの世界に戻ってきたのだと信じていたのに。
八戒と自分の間の壁は、こんなにも大きく厚いものだったのだろうか?
ジープから降り、運転席に廻る。
壁があるのなら、それを突き破れば良い。
そう決めて、思いっきり勢い込んで八戒の腕を掴む。
「悟浄?」
碧の瞳が真っ直ぐに自分を見上げたのを確認すると、ぼそりと一言だけ呟いた。
「案内して」
「え?」
「お前ンち」
「ごじょ・・・」
「ねーちゃんに挨拶しねーと」
掴んだままの腕をそのまま引っ張ってジープから降ろそうとする。
「待っ、待ってください、悟浄。僕は行きたくありません」
頑として、その場から離れない八戒と、それを引き離そうとする悟浄。暫く攻防が続き、とうとう八戒が叫んだ。
「貴方だって、分かっていたでしょう?、僕がこの仕事に消極的なのを。何故貴方はそれを知っているのに、僕が嫌がるような真似をするんですか?」
「忘れようとするから、いつまでもそんな顔してんだろ?!」
八戒が鼻白んだ。
「だったら、忘れなければ良いんじゃねーの?。ねーちゃんのこと覚えていても良いじゃん」
すい、と腕を引いた。
「案内してよ、お前ンち」
ゆっくりと、八戒の右足が地面に降りた。
てくてくと、2人の男が人気の少ない寂れた村の中を歩いていく。紅い髪を無造作に後頭部の辺りで一つに縛った男と、帽子を目深に被った俯き加減の男。2人は、黙ったまま人の気配が感じられない村の奥へと目指していく。
そして。
その家の前で止まった。
悟浄は一瞬目を瞠った。今までの寂れた雰囲気からは想像の出来ない光景を目の当たりにして。そして、視線を足元に落としたままの連れに声をかけた。
「八戒、見てみろよ」
悟浄に促され、そろそろと、視線を地面から上げる。その目の前の光景に言葉をなくした。
鮮やかな青。
それは確かに、庭の端の小さな一角だけだったが、そこには確かに生命が息づいている。八戒の口から、呟きがこぼれた。
「なんで・・・、そんなはずないのに・・・」
「八戒?」
「この花が、ここに咲く筈ないんです。だって・・・」
僕がお互いの誕生日に、植木鉢へ蒔いたのだから。
「悟浄、この花の名前知っていますか?」
―――悟能、この花の名前、知ってるでしょう?―――
「『勿忘草』って言うんですよ」
―――私達が出逢えたのって、きっと2人ともお互いの存在を忘れなかったからだわ。
あなたとまた出逢えて嬉しいから、この花が欲しかったの―――
「彼女がとても喜んでいたので、春にはこの花が咲くように、って僕が種を蒔いたんです」
その花が咲いたのを見ることもなく、花喃は逝ってしまったけれど・・・。
「鉢植えの花が何故ここに・・・?。そもそも、この花は一年草で、毎年咲くものではないんですよ」
皮肉な話だが、あの時、花喃が連れ去られた時、何かの拍子で飛ばされた植木鉢が戸外に種を植え付けたのだろう。蒔いた種は少数であったはずなのに、慎ましくも、しっかりと地面に根付いている花は種を飛ばし、数を増やして今や、植木鉢には収まらないほどになっている。秋に訪れた時には、まったく気付かなかった。しかしその間も、この花はこの家にひっそりと生きていたのだ。
呆然と一点を見つめたままの八戒を紅い瞳に映し、悟浄はハイライトに火を点ける。
「そりゃあ。アレだろ」
忘れられたくなかったんだろ?
―――忘れないでね、悟能―――
誕生日に嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた女性の面影が、今、この青い花に再び思い出された。
忘れようとしていた自分が可笑しくなる。彼女との思い出は哀しいものだけではなかった筈なのに、楽しかった思い出さえも奥底に閉じ込めて忘れようとしていたなんて。過去に縛られない、というのは忘れることでは決してないのだ。一体自分は何度同じ所をグルグルと回れば気が済むのだろう。
八戒は、暫くその場で穏やかに笑みを浮かべて、小さな花に見入っていた。
「どーする?これ、一株貰って帰るか?」
悟浄の提案に、八戒は穏やかな顔でゆるゆると、首を横に振る。
「ここに残していきます。この花はきっと、ここで咲いているべきなんだと思いますから」
ここが、彼女が僕と生きていた証なんですから。
「帰りましょうか、悟浄。僕達の家へ」
真っ直ぐに紅い瞳を見返す碧の瞳。数時間前の迷いは見られない。
今は、『猪八戒』だとしても、『猪悟能』であったことを覚えていれば良い。『猪悟能』は確かにここに居て、『花喃』を確かに愛していたのだ。
この花がなくならない限り、花喃の思い出は生き続ける。
八戒は踵を返すと、一歩一歩しっかりと前を向いて歩い行く。
その隣に、悟浄が並び八戒の歩調に合わせて進む。
だんだん遠ざかっていく、一点の青。しかし、視界から見えなくなったとしても、確実にその花は咲いている。
その名前の通り、『忘れないで』と囁きながら。 |