「綺麗な赤ですね、悟浄」
驚く間もなかった。ただ、「彼がこの世界に居た」という事実が、なぜか悟浄を安心させてしまった。
これから、世話になった最高僧のところへ挨拶に行くと言うので、悟浄も同行することにした。やはり、言うべきことは言っておかなければ。
「死んだんじゃなかったのか・・・」
くそぉ、あの生臭ボーズ!適当なことぬかしやがって。と寺院へ行く道すがら一人ごちていると、と隣を歩く碧の眼をした青年は以前のような笑顔で「三蔵さんは嘘は言っていないですよ」と、ワケの分からないことを言う。
「『猪悟能』は死んだんです。三仏神さまから新しい人生を生きるようにと、新しい名前を頂きましたから」
「そう言やぁ」
新しい煙草に火を点けながら、ふと思い出したように
「俺、アンタの名前聞いてなかったなぁ。あそこから始めない?」
―――名前、教えろよ―――
まるで、悪戯を仕掛ける子供のような笑顔だから。秘密を共有するような笑顔で言うから。ついつい、訊かれた方も内緒話をするような気分になってしまい、自分の新しい名前を大事な物のように告げる。
「―――僕は、猪八戒です」
たった今教えてもらったばかりの名前をインプットするように口の中で呟くと、彼特有のニヤリとした笑顔を八戒に向け肩を並べて歩いていった。
街を抜けた。遠くに見える山々の緑と空の青さとが鮮やかに映り、まだ日が高いことを教えてくれる。二組の地を踏む足音だけが聞こえ、その穏やかな静寂の中で悟浄の声がすとんと響いた。
「なぁ、八戒」
呼ばれた方も呼んだ方も何となくくすぐったい気分になる。前者は新しい名前を呼んでくれる人がまた一人増えたことが嬉しくて、後者は覚えたての言葉を使ってみたがる子供になった気がして何となく照れてしまい、それぞれ自然と頬が緩む。
しかし、用があるのだから仕方がない。
「これからどうするんだ?」
今まで悟能が暮らしていた村は、彼自身が奪ってしまった。戻ろうとも戻れるはずもないし、そもそも、八戒自身が戻る気もないだろう。
「まだ決めていないんです。でも僕一人ですから、自分で日々過ごすくらい何処でだって何とかやっていけると思うんです。三蔵さんが紹介状を書いてくださるそうですし・・・」
最高僧の紹介状なら、多分何処でだって通用するだろう。しかも、紹介された人物はこの雰囲気の青年だ。雇う方でも懸念する理由がない。八戒が言った通り、一人で暮らすことに心配はないはずだ。
だが、
「俺、ゴミの仕分けダメなのよ」
その上、ゴミの日覚えてねーんだわ。
紅い瞳をすがめて、ちょっと難しそうな顔を作る。
そう言われてみれば、悟浄の家で世話になってひと月もいた筈なのに、珈琲を淹れてくれたり食事を作ってくれたりする姿は良く見かけたのだが、ゴミを仕分けしている姿はついぞ目にしたことがなかったことに思い当たる。雰囲気でどうこう言ってしまってはいけないことだとは分かっているのだが、そういう所帯染みたことが果てしなく似合わない男だったので、今彼自身に言われるまで頭に浮かばなかった。ましてや、ゴミの日をカレンダーにチェックしていて指定日にゴミを運ぶ姿を想像すると、そのアンバランスさに笑いそうになる。
「それはいけませんね」
うっかり想像してしまって、くすくす笑いながら八戒が答えた。
「そー言うお前はどうなのよ?」
自分から言い出したこととは言え、こうして笑われてしまうと気分は悪い。さっき作った表情を更に渋い顔に変化させて悟浄が振ってくる。
「だって、ゴミの当番は僕の仕事でしたから」
あっさり返されてしまって、ますます面白くなくなってしまった。
「困りましたねぇ」
そんなこと言われたら、気になっちゃうじゃないですか。
口ではそんな風に言いながらも全然困った表情を見せない八戒に、悟浄は「してやったり」という笑顔を見せて、「だからさ」と結論を促す。
「一緒に暮らさねぇ?」
その台詞を聞いて、きょとんとした表情を悟浄に向ける。「何よ?」と訊くと、今度は本当に困った笑顔になって
「良いんですか?」
と、問い返してきた。
「僕が悟浄と暮らし始めてしまったら、困るのは悟浄でしょう?」
女の方が連れ込めませんよ?
悟浄がもてるのは知っている。ひと月一緒に暮らしていた時にも、出掛けて帰って来ると色々な香水の残り香をさせていたし、先程の顔見知りっぽい女性との立ち話の様子を垣間見て「やっぱりなぁ」と確信してしまった。
悟浄に恋人はいない、と思う。でもだからこそ、悟浄を慕ってくる女性は沢山いるのだろう。自分のような同居人がいたら、そんな女性達も悟浄の家に来ずらくなってしまうではないか。
そんな懸念を、悟浄は短くなった煙草を吐き出すのと一緒に一蹴してしまった。
「俺は、あの家には女連れ込まねーの。それに、重要なのは俺が相手だということで、場所はかんけーないの」
彼の自信たっぷりの台詞に、またもやクスクスと笑い始めて保留にしていた結論を出した。
「それでは、お世話になります」
多分、これが悟浄なりの優しさだと八戒は薄々とだが気づいていた。
悟浄と一緒に住むことになれば、自分独りで暮らすときよりあの街に馴染むのも数倍は早いだろう。それを踏まえて、敢えて自分に負担にならない方法で同居を申し込んでくれたのだ、と。
とりあえず、腕の中の林檎を届けるのと身の置き場が決まったことを報告しようと、二人は寺院へ向かって歩を早めた。 |