9月に入ったと言ってもまだ夏の名残が残っている。しかし、通り抜ける風は少々肌寒さを伝え、密やかに、しかし確実に季節が移っていることを、教えていた。
この穏やかな気候になってから、悟空が悟浄の家を訪ねる回数がぐんと上がった。確かに、刺すような夏の激しい太陽の下を歩くよりも、穏やかな光を放つ今の方が移動するのは苦にならないだろう。もっとも、悟空の場合、夏だろうが秋だろうが元気に外を飛び回っていることは変わらないのだが。
午後のおやつに出されたスコーンを両手に確保して、満面の笑みを隣に座る青年に向けた。
「なあ、八戒!」
「なんですか?」
まさに夏の太陽を思い出させるような眩しい笑顔を向けられて、八戒は目を細め笑顔を作って呼びかけに答える。スコーンにシロップをつけながら、悟空が瞳をキラキラさせながら言葉をつむいだ。
「今年こそはさ、八戒の誕生日は皆でお祝いしよーな」
――八戒の誕生日――
言われるまですっかり自分の誕生日のことなど忘れていた。今月はとても大事なことがあった筈だと思っていたのは、そうか、あの女性が生まれた日だったんだ、と合点がいった。
そんな状態だったので特にその日に予定を入れていることもない。去年は、わざわざ来てくれた少年とその保護者に無駄足を踏ませてしまったのだ。
「そうですね・・・」
「却下」
第三者の声が聞こえて、2人は声のした方に視線を向ける。自己主張をするかのような嗅ぎ慣れたハイライトの匂い、紅い髪の男が目をすがめながら、灰皿に短くなった煙草を押し付け、新しい一本に火を点けようとしているのが見えた。悟空は金色の瞳に不満気な表情を浮かべ、八戒の向かいに座る悟浄を軽く睨みつける。
「何だよ、悟浄!。お祝いするのがイヤなのか?」
「21日はダメ、先客あり。サル、他の日にしろよ」
「サルってゆーな!エロガッパ!」
「え?サルじゃなかったっけ?バカザル、チビザル、胃袋ザル、好きなの選べよ」
「なんだと!、このゴキブリガッパ!!」
すでに恒例となっている悟空と悟浄独特のちょっとしたコミュニケーション。2人とも本気でケンカをしていないのが分かるので、八戒は傍観者に徹するのだが、今日のはいつものそれと比べて違和感を覚えた。紅茶のお替わりをそれぞれのカップに注ぎながら、穏やかに言葉を発する。
「悟空、シロップが垂れてますよ?」
言われてふと左手を見ると、確かにメイプルシロップは悟空の手首の辺りまで金色の筋を作っていた。「あ、やべ」と呟いて、慌ててスコーンを頬張る少年に八戒はくすくすと笑いながらナプキンを差し出した。
「すいません、21日は用事があるのを思い出しました。次の日なら空いてますから、その日に来てくれると嬉しいんですけど…」
ご馳走作って待ってますからね、の一言で手に垂れたシロップを舐め取っていた悟空の不満気な表情は一瞬にして笑顔になる。
夕方、家を後にする時に更に念を押して約束を取り付けると、悟空は満足そうな笑みを浮かべて森の中に消えていった。
「で、悟浄。あんな風に話を逸らしてまで誤魔化さなければならない大事な先客って、一体誰なんです?」
その日の夜、食事の片付けが終わってからマグカップを両手に携えて、八戒がリビングに姿を現した。とん、と悟浄の目の前に琥珀色の液体が入ったそれを置く。珈琲の芳しい香りを堪能するように、目の前までカップを持ち上げた悟浄がすました顔で
「俺」
とだけ答える。珈琲に口をつけようとしていた八戒がその一言で動作を止めて、顔を上げた。
「は?」
「だから俺に付き合って?、21日」
付き合うも何も、毎日顔をつきあわせているのだから、改めて了解を得なくても良いのでは?と少々いぶかしむ。そんな八戒の気持ちに気付いたのか、煙草に火を点けながら、彼独特のニヤリとした笑みを向けた。
「ちょっと出掛けたいトコがあるんだよ、一緒に出掛けねー?」
「それは・・・。遠いところなんですか?」
「んや、大した距離じゃねーけど。ジープは俺が運転するからさ」
いきなり自分の名前が出て来たことに驚いて、そんなことは初耳だとでも言いたそうに、ソファの上で丸くなっていた小竜が不満気な声をあげる。
こんな悪戯っ子のような光が紅い瞳に宿っている時は、もう何を言っても無駄だということを、1年余りの同居生活で分かるようになってしまった。ほう、とため息をついて、やや眉尻を下げながらも笑顔を作る。
「分かりました、21日は貴方に付き合うことにします」
その満足のいく答えに悟浄は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
そして、21日。
秋晴れという表現が良く合う天候に恵まれて、悟浄と八戒を乗せたジープは森の中を駆けて行く。
運転席では紅い髪がなびいている。普段は飼い主である自分がジープの運転することが多いので、助手席の八戒はやや居心地が悪そうだ。何もすることがないのを少々持て余して、悟浄に本日3度目の問いかけをする。
「で、どこ行くんですか?」
「んー?着いてからのオタノシミだって」
先ほどから変わらない答えに諦めを感じながらも、再び向かっている先へと視線を移した。
暫くすると、以前見たことのある景色にぶつかった。あの時は、こんなに晴れてはいなかったし、ましてや夜の出来事だった。その事に思い当たって、はっと隣の運転手の表情を窺う。しかし、悟浄のほうは先ほどと何ら変わることなく、黙ってハンドルを繰っていた。
「悟浄・・・」
「もーちょっと先だったよな」
「ごじょ・・・」
「あれから1年以上経ったのになー。結構道順とか覚えているもんだね」
「ご・・・」
「着いたぜ」
きゅっとブレーキを踏みエンジンの音が止まる。辿り着いたそこは、何もない、一面の荒野だった。
―――僕は、また救えなかったんですね―――
あの時自分がそう呟いた場所。今、自分は再びこの場所を訪れた。もう、二度と立ち寄ることもないと思っていた百眼魔王の城跡に。
ジープから降りることはおろか、顔すらも上げられずに膝に視線を落としている八戒とは対照的に、悟浄が流れるような動きで地面に降り立ち、この景色から八戒をかばうようにその前で彼に背中を向けて立つ。何もない場所に視線を向けたまま、ポツリと呟いた。
「前のお前ンちと、ここ。どっちにしようか迷ったんだけど、お前のねーちゃんが居るのはここだったから・・・」
そろそろと顔を上げ目の前に立つ男の背中を見つめる。一陣の風が吹き、紅い髪を絡めて通り過ぎて行った。
「俺、お前のねーちゃんには、言ってないんだぜ?。おめでとうってさ」
風につられるように悟浄の精悍な顔が振り向き、八戒の碧の瞳に視線を合わせた。
「俺、自分の誕生日も思い出したくなかったからか、お袋のも兄貴のも覚えてねーんだよ」
だからせめて、分かるヤツの誕生日は祝いたかった。そう呟いた悟浄の笑顔が今にも泣きそうに見えたのは気の所為だったのだろうか?。
なんと言って良いのか分からず逡巡して、大きく深呼吸をしてから八戒も笑顔を作る。いつもの彼が見せる暖かい笑みではなく、懺悔をするような微笑み。
「悟浄」
「ん?」
「僕は、薄情な人間、なんです」
悟空に言われるまで、自分の誕生日を思い出しもしなかった。去年は、ちゃんと自分で花喃の誕生日を祝ったはずなのに。この1年があまりにも目まぐるしく過ぎて行ったものだから、こんな大事な日まで忘れそうになってしまった。
その事実に気付いた時、自分自身にぞっとした。
あんなに愛していた女性のことをたった1年で風化させてしまうなんて・・・。果たして、自分は花喃のことをどこまで深く想っていたかすら、分からなくなってしまった。
ハイライトにを銜えながら、静かに八戒の告白を聞いていた悟浄がおもむろに口を開いた。
「それはさ・・・」
碧の瞳を真っ直ぐに紅い瞳が射抜いた。
「忘れなくちゃって思い込んでいたから、忘れそうになったんだよ」
紅い瞳の色が深まり、悟浄が暖かく包み込むような笑顔を向けた。
「確かに、過去に縛られるのはいけないと思うけどさ、だからってその全てを忘れようとしちゃいけないだろ?誰かは覚えいていてやらなくちゃ」
お前のねーちゃんは、確かにここに居たんだから。
「ちょっとずつで良いから、俺にも話してよ。カナンがどんなオンナだったかさ」
思い出を共有できる人がいれば、思い出の中の人だってずっと一緒にいられるのだ。思い出すにはつらいことが多かった悟浄は、一体どんな気持ちでそのことを知ったのだろう。悟浄から語られる言葉だからこそ、ずんと胸に響いた。
3度大きく深呼吸を繰り返し、強い瞳で悟浄の視線を受け止める。
「少しずつですが、聞いていてもらえますか?」
ふわりと、笑顔を浮かべ、それから八戒はポツリポツリとここで自ら命を落とした女性のことを語り始めた。
西日がきつくなる頃、たどたどしく言葉をつむいでいた八戒がひと段落ついたところで「帰りましょうか」と促した。先は長いのだから、花喃の話はこれからもできるだろう。それまで黙って聞いていた悟浄が後部座席から、手のひらほどの紙袋を取り出した。
中に入っていた粒状のモノをバラバラと撒き散らす。袋の中のものがなくなってから、ようやく運転席に戻ってきた。
「何ですか?今の」
後部座席に投げられた茶色の紙屑を振り返りながら、八戒が聞くと、エンジン音の中から「種」とだけ答えが帰ってきた。
「種?なんのですか?」
「お前・・・。俺が知ってるとでも思う?」
「そう言えば、そうですね」
クスクスと笑う八戒を一瞬恨めしく睨んだが、気を取り直したようにハンドルを切りUターンさせながら「でも、ま」と言葉を続けた。
「来年になれば分かるっしょ」
来年。
またここに来るのだろうか?。その時はもっと君の思い出が増えているから。ずっとそばにいるから。
しおれる花束をおいて帰るのではなく、これから育つであろう花を集めて、君との思い出も一緒に束ねて大きな花束を作ろう。
広い荒野を西日が照らし、そこから思い出を持ち帰る2人の影を長く伸ばしていた。 |