バレンタイン奇談
 悟浄が帰宅した時、まだリビングの灯りは点いていた。それは、帰ってきた時に暗い家では味気ないだろうという、八戒の心遣いの結果であり、いつものことだったので、何の気もなく普段通り鍵を取り出して家に入った。
しかし。
「どうしたの?お前・・・」
普段だったら、もう既に自室で休んでいるはずの八戒がソファに座って本を読んでいた。視線は膝に乗せた文庫本に注がれたまま、お帰りなさいと声をかけられた。ページのほとんどが右手側にいっており、左手側には、あっても10ページぐらいだろう。読み始めたものが面白くて、ついうっかり夜更かしをしてしまった・・・というところだろうか?。椅子の背もたれに防寒用のジャケットを引っ掛け、「ンじゃお先に」と自室に向かおうとしたところで、呼び止められた。
「悟浄、ちょっといいですか?」



 時々、八戒の笑顔の裏は読めない。と思う。そして、きっと今もそんな時なんだろうと思う。テーブルをはさんで向かい合わせた2人の間には、珈琲の入ったカップが2つ。向かいに座った八戒が、カップを手に取り一口喉に流して、こくんという音まで聞こえるくらいの静けさだ。「ちょっと良いですか?」ととても綺麗な笑顔で呼び止められて、珈琲を淹れてもらって今に至るが、まだその「ちょっと」の話が出てこない。いい加減業を煮やした悟浄が声をかける。
「なんか、話があったんじゃないの?」
「えぇ、話というか、なんと言うか・・・」
八戒の返事はいつにも増して歯切れが悪い。両手でカップを暖めるように持ち、視線はその琥珀色の液体に注がれている。何か悩みでもあるのだろうか?、
「良かったら話してみろよ?出来るだけ力になるからさ」
「そうですね・・・、僕だけが悩んでいても解決しませんし・・・」
そう言って視線をカップの中から、真っ直ぐ向かいに座る悟浄へと向けた。深い色をした碧の瞳。その澄んだ色の瞳が、静かな湖を連想させる。
「悟浄、実は・・・」
「・・・・・。」
カップの取っ手を握る手にも力が篭る。一体、八戒は何をそんなに思いつめているのだろうか?
「分からないんです」
「どうした?」

「一体、いつから僕と貴方は恋人同士になったんでしょうか?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「は?」
当事者が初耳ってあたり、何事?と思わずに入られない。悟浄は、今、自分が珈琲を飲もうとしていなくて良かったと、心底思った、そうでなければ、あの『恋人同士』のくだりで珈琲を噴出していただろうことは分かりきっていたので。
 心を落ち着けるために珈琲を一口口に含み、それを嚥下するまでの時間をたっぷりと使いようやく返事をした。
「何のこと?」
視線を八戒に合わせると、向かいの青年は、それはそれは綺麗な笑顔で自分のことを見つめている。八戒の笑顔は綺麗だとは思うけれど恋人にしたいと思ったことはない・・・と思う。と、いうか、恋人同士ってなんだよ?!。
 悟浄の思考回路もいい加減支離滅裂になりかけていた。



 発端は、この日八戒が買い物に街まで出掛けた時に、知り合いの女性に声を掛けられたことから始まる。
 いつものように、足りなくなった食材や生活雑貨を買いに来ていたのだが、今日は、何となく自分に視線が集まっているような気がしていたのは事実だ。背中に何か悪戯で張り紙でもされたのだろうか?と何回か後ろを振り向いてしまったほどである。そんな時に、彼女が声を掛けて来たのだ。
「八戒さん、こんにちは」
お互いの行動範囲が違うため、『悟浄の知り合い』が必ずしも『八戒の知り合い』になるとは限らない。昼は花屋、夜は呑み屋でアルバイトをしている彼女は、ごく稀な2人の共通の知り合いである。さらに、媚を売らないサッパリとした性格は2人とも気に入っていていた。
「あぁ。こんにちは、清華さん。今日はお休みですか?」
配達が終わって帰るところだとカラカラと笑った後、彼女はちょっと声を潜めて「ところで・・・」と続けた。
「八戒さん、ごめんなさいねぇ」
「はい?」
いきなり謝られた八戒のほうは一体何のことだかサッパリ分からない。
「去年、大変だったんでしょ?悟浄に聞いたわ」
『去年』と言われて、そんな昔のことを蒸し返されるようなことを自分はやっただろうか?と、前方斜め上を見上げて思い出そうと、ちょっと難しい顔を作ってしまった。
「昨日悟浄から言われたのよ、『八戒が煩いから、今年はチョコレートはカンベンな』って・・・」
そう言われてようやく納得がいった。そう言えば、もうそろそろ女性にとっての大イヴェント・バレンタインデーがやって来るのだ。
 去年、ついウッカリ買い物に出掛けて山のようなチョコレートを貰ってきてしまい、甘いものが苦手な悟浄をゲンナリとさせてしまった。甘いものが嫌いなら、そう言えば良いのでは?とその時助言をしたのだが、どうやら自分をダシに使ったようである。どこまでもかっこつけな性格だと、内心苦笑しなからも、自分の方に迷惑がかからなければ口裏を合わせようか?と、曖昧に笑って誤魔化そうとしたところで、相手の口からとんでもない言葉を聞いた。
「まさか、あなた達がそんな関係になっているなんて」
・・・・・・。
そんな関係とはどんな関係だ?。
曖昧に笑おうとしたところで、表情が固まってしまった。
「でも、その場にいた子達も、『変なオンナに取られるくらいだったら、八戒さんの方が良いわ』って言っていたから、大丈夫よ」
ちょっと待って欲しい、一体何が大丈夫なのか?
「私たち、2人の味方だからね!道外れた恋だって、応援するから」
確かに、自分は以前道外れた恋をしたはずだが、きっと彼女の言っているものとは違うだろう。
「男同士の恋愛なんて、今じゃ結構どこにでも転がってるから」
―――男同士の恋愛―――
聞きたくない言葉をとうとう聞いてしまった。
 兎に角、頭の中を整理して誤解を解くべく、停滞気味になってしまった思考回路を動かそうとしているうちに、彼女は「じゃ、次の配達があるから」と手を振り、爽やかな笑顔で去って行ってしまった。
 真昼間の往来で、八戒はとんでもない誤解を受けたまま置いて行かれ、暫くその場に立ちすくんでしまった。



「どういうことだか説明してください」
目の前の、それはそれは綺麗な笑顔は、表面通りにとってはいけない。その笑顔の後ろには、怒りのオーラが見えるようだ。悟浄は、ヘビに睨まれた蛙のようにぎこちない動きで、ハイライトのパッケージから一本取り出してライターで火をつけた。紫煙が緩く立ち上る。
「僕は、今日1日で貴方のハニーちゃんにさせられているんですよ?」
「・・・・・。逆かも知れないじゃん」
「だったら、何で『お体お大事に』って暖かい笑みで薬局の奥さんから軟膏を貰わなくちゃいけないんですか・・・。ってそういう問題じゃないんです。説明をしてくださいって言っているんです」
他にもリサーチしたくなくても、街の人々――主に女性だが・・・――があれこれと、八戒に興味津々で近付いて来て色々と教えてくれては去って行く。そのほとんどが、二人を祝福するような暖かい表情なのが、また更に八戒の機嫌を低下させていた。そんなことはおくびにも出さないけれど。
曰く「『チョコレートをもらった時の僕の身にもなってください』と言われた」
曰く「去年、チョコレートを貰って帰ってきてから、八戒の所為で悟浄は暫く家の中にいづらくなってしまった」
「いや、だから・・・」
「はい」
一度口をつけたままのハイライトは、灰皿に置かれたまま、どんどん灰の長さを伸ばして行く。
「俺はそんなつもりで言ったわけじゃないってば」
「当然です」
 悟浄の弁解を整理すると、こういうことらしい。
「去年、買い物から帰ってきた八戒が『チョコレートを渡された時、(買い物に行ったのに、更にこんなに沢山の贈り物を持って帰るようになった)僕の身にもなって欲しい』と訴えた。更に八戒(が作るチョコレートを使ったお菓子)の所為で、(匂いに耐えかねた)悟浄は暫く家の中にいづらくなってしまった。だから、八戒のことも考えて今年はチョコレートはカンベンな」
悟浄の告白を聞いて、暫く考えるように黙って俯いていた、八戒はようやく顔を上げる。
「要するに」
目の前には、それはそれは綺麗な笑顔。
「貴方のかっこつけのために僕をダシに使ったは良いものの、後ろめたさがあって言葉を曖昧にしたものだから、周りの方々がその曖昧な部分を補填したお陰で、僕は貴方のハニーちゃんになってしまったということですか」
「・・・の、ようです」
カラカラに乾いてしまった喉を悟浄は目の前の冷めた珈琲で潤す。八戒の淹れた珈琲は美味しい筈だが、哀しいかな、今は味わう余裕もなかった。
「悟浄」
最後通達のように八戒の自分を呼ぶ声が響いた。
ソロソロと、紅い瞳を上げる。
「明日から、街中の誤解を解いてきてくださいねv」
今日一日感じた街中の視線。きっと動物園の動物達はこんな居心地の悪さを感じているのだろう。暫く買出しも悟浄に任せた方が良いかも知れない。
「カシコマリマシタ・・・」
長く、長く続くだろうと思われた、一日がようやく終わった。



 そして、2月14日。
 悟浄は、朝から最悪の気分で目を覚ました。
 甘ったるい、チョコレートの匂いで起こされる、というのは正直宜しくない。まるで自分の家がお菓子の家になった気分である。
キッチンに近付くにつれ、強くなっていく、カカオの香り。
 ドアを開けると、爽やかな顔をした八戒が振り返った。
「おはようございます、悟浄」
手には、黒いケーキのような物体。
「はよ・・・。何?サルでもくんの?」
「どうしてですか?
珈琲ポットを用意されたお陰で、カカオの香りは、珈琲の香りに少々押され、軽減された。八戒の問いに、仇でも見るような表情でケーキを睨んで答えた。
「だって、そのケーキ」
「あぁ、これは貴方のものですよ?。チョコレートケーキです」
心を込めて焼きました。ひと欠片残さず、全部食べてくださいねv。
「だって、僕は貴方のハニーちゃんらしいですから・・・」
 それはそれは、綺麗な笑顔。

 八戒の怒りは、現在進行形らしい。
 お疲れ様でしたー!
 なんとも下世話な話になってしまいましたが、うちの58だったら、きっとこんな感じです。「恋人?。なにソレ?」とか言いそうです。
 とりあえず、去年のバレンタインの続きです。
(2004.2.14UP)