慶雲院の裏に小高い山がある。
そのてっぺんに、大きな桜の気があり、その堂々とした存在感と寺院の近くに生えているこの木を、、人々は神様の宿る木、ご神木と崇めていた。
いつも、山の麓から多くの人々に眺められている樹木。誰からも親しまれているはずなのに、誰も近付いて来る気配のないこの樹の下には、今日、普段とは違った明るい声が響いていた。
遡ること1週間前、ようやく雪が溶けて道の泥濘もなくなってきた頃に、悟空が悟浄の家を訪ねて来た。
三蔵が、急遽、遠出をする用事ができてしまったため、彼が不在の間悟浄たちの家で過ごすことになったのだ。
ここに預けておけば、三蔵がいない間、手に余る野生児を気にし過ぎて僧侶達がストレスを溜めることもない、他の坊主たちには手に負えない悟空のことを考えて、三蔵の胃に穴が開きそうになることもない、ちょっとしたことで顔しか知らないようなハゲにガミガミ言われて悟空がむくれることもない。更に、素直な性格の悟空を気に入っている八戒は、内心悟空の来訪を心待ちにしている。普段ケンカをしているように見える悟浄でさえも、歓迎とは行かないまでも悟空が遊びに来ることを迷惑に思ったことはない。全てが丸く収まる。
そんなわけで、昼過ぎに到着した悟空と、彼の来訪を歓迎してくれた八戒は手作りのビスケットと温かい紅茶で午後のおやつを楽しんでいた。
丁度、悟浄は久々に会う友人と呑み会があると出掛けて行ったので、本日のおやつは悟空が独り占めしても誰も咎めない。その事に満足して、悟空は皿に盛られたビスケットを手に取った。
「そう言えば」
2杯目の紅茶を注ぎながら、ふ、と思い出したように柔らかい視線を悟空に向けた。
「もうすぐですよね?」
ビスケットにメープルシロップをかけながら、きょとんと目を丸くして八戒の問いに答えようと、頭をめぐらせた。
「悟空、垂れてますよ」
一瞬、食べ物以外のことに頭を働かせたものだから、斜めに傾けていたシロップの壷の存在を忘れてしまった。ビスケットを持った悟空の左手は、シロップでベタベタになってしまう。
「あ、やべ」
左手を舐めつつ、出された布巾でベタベタを取り除くと、もう一度不思議そうな顔を八戒に向けた。
「ごめん、八戒。何がもうすぐか、ちょっと思い浮かばなかったんだけど・・・?」
心底不思議そうな金色の瞳を向けられて、八戒は、苦笑した。
「すいません、主語が抜けていましたよね」
あなたの誕生日ですよ
確か、5日でしたよね?と問われて、ようやくその事に思い至った。
去年から出来上がった誕生日。悟空には過去の記憶はないので、本当の誕生日ではない。この日は三蔵が悟空を見付けた日だ。
誕生日。その人と出会えた事を喜び、その人が生まれた事を感謝する日。三蔵や、八戒や、悟浄だけでなく、自分にも平等にその日がやってくるのだと思うと、凄くワクワクする。八戒は、そんな悟空のウズウズと心の底から湧き出るような笑みを、碧の瞳に収めながら問うた。
「誕生日にプレゼントをしたいんですけど、何かリクエストはありますか?」
そう訪ねられて、一瞬考えるように宙に向けた視線が、すぐに八戒の視線とぶつかった。悟空独特の迷いのない、真っ直ぐな瞳。
「何でも良いの?」
そして1週間後。
1年前と同じく、うららかな春の日、彼らは、この桜の樹の下にいた。
「で、これが悟空のリクエストだったのか?」
杯を傾けつつ、三蔵が桜の天井を見上げる。
三蔵が干した杯に酌をしながら、柔らかい笑顔で八戒が頷く。
「はい、去年と一緒で良いって。それにしても、ラッキーでしたね、ここの桜が周りよりも早いなんて」
今年の冬は、例年に比べて寒く、雪の量も多かったためか、普段だったらこの辺りでも咲き始めている桜の花は、4月に入っても蕾が固いままだった。このままだと、蕾の下で花見をしなければいけないだろうと、腹を括った前日、いきなり花が咲き始めたのだ。ここ最近の初夏を思わせるような陽気の所為らしいのだが。
お陰で、悟空の誕生日には満開とはいえずとも、7分咲きくらいの桜の下で誕生会と称した花見をすることができた。
三蔵の向かいでは、相変わらず、重箱の中身を取り合って、悟浄と悟空が低レベルな争いをしている。
「このサル!、人の取り皿からさり気なく唐揚げ取って行くんじゃねーよ!」
「今日は俺の誕生日だぜ?、悟浄からのプレゼントはこれで良いから」
「それと、これとは話が別だろーが!。返せ、最後の1個大事に取っておいた唐揚げ!」
悟浄が掴みかかろうとした瞬間に、撃鉄の上がるジャギ!という音が聞こえた。
「肉が食いたいんなら、今すぐ新鮮な生肉を作ってやるぞ」
安全装置を外した拳銃を向けられて、紅髪の男と、金眼の少年はおとなしくホールドアップの体勢になる。
「俺、誕生日なのに・・・」
「それにしても悟空、リクエストが去年と同じことがしたいって、本当にそれで良かったんですか?」
重箱を丁寧に片付けながら、八戒が悟空に訊いた。1週間前、尋ねた時も、あまり迷わず、この案を申し出されたのが、若干引っ掛かる。悟空は本当の希望は他にあったのではないだろうか?と。
しかし、八戒の懸念は当の悟空によって消されてしまった。
「去年から誕生日ができた。八戒が、誕生日の意味を教えてくれただろ?。なら、俺の大好きな人たちが、俺の誕生日を一緒に喜んでくれるなんて最高だと思うんだけど?」
金色の瞳が3人の年長者の間を順に見ていく。それぞれにきょとんとした、と言うか驚いたといったような表情。次の瞬間、悟空の視界から、今まで見えていた風景が消えた。
「あ・・・」
呆然とした悟浄の呟きが悟空の耳に届く。一体自分の身に何が起こったのか、さっぱり分からない。ただ、視界が遮られたのと同時に、ふわりとした暖かい何かに包まれているような感触がした。
耳に直接届くような距離で八戒の声が響く。
「悟空。あなたって人は・・・」
その普段だったらありえないような距離の声に、漸く八戒に抱き締められていると気付いた。そのままの体勢が何となく嫌で、両腕をおずおずと彼のほっそりとした背中に回す。
「・・・・・。なんつーかこう」
呆然と言ったような悟浄の声が聞こえる。
「ユリっぽい・・・?」
「・・・・・・。あぁ・・・。」
三蔵の声も、何となく呆然と言ったような口調で聞こえ、それに被さるように「黙りなさい、そこの2人」という身も凍るような冷たい声音の八戒の声が響いた。
「悟空、あなたはあんな大人にならなくて良いですからね」
最後にもう一度ぎゅっと強く抱き締められてから、拘束が緩んだ。顔を上げると、悟空の大好きな八戒の柔らかい笑顔が、自分を見下ろしている。それが嬉しくて、悟空も自然と笑顔になった。
「やっぱ、ユ・・・」
悟浄の呟きは、視線は悟空に向けたままの八戒が、的確に彼のおでこに向かって投げつけたケーキ用のフォークのお陰で、最後まで言われることはできなかったが。
その時、
八戒の背後からハラハラと、何かが降ってきた。
「あれ?」
悟空の呟きで、3対の瞳が上を見上げる。
「花びら?」
八戒の言う通り、それは、桃色の小さな花びらだった。初めは1枚だけだった花びらが次から次へと、彼らの元へ降りてくる。
まるで、雪か鳥の羽根の様にゆっくりとゆっくりと舞いながら。
「ついさっきまでは、7分咲きだったはずなのに」
桜の樹に視線を移すと、先程まで蕾だったものまでもが綻んでいるのが分かった。いくら春の陽気だといっても、そんなに急激に開花が早まるものなのだろうか?。その幻想的な舞い降りる花びらを眺めていると、ふいに三蔵が悟空を呼ぶ声が聞こえた。
「この桜の樹がご神木というのは、あながち嘘じゃねぇかもしれないな」
「確かに。こんな現象は、普通だったらありえねーし」
「悟空、きっと神様があなたを祝福してくれているんですよ」
悟空は、視線を舞い落ちる花びらからその上にある桜の花に向けた。
桜の樹をみていると、何故か心のどこかがぎゅっと締め付けられる気がする。自分の覚えていない過去に何かがあったのかもしれないな。と、思う。
−見てみたいモンだな−
三蔵とは違う。三蔵のような誰かの声がふ、と悟空の脳裏を掠めた。その声と同時に、寂しいような、何かが足りないような想いも。
それが何なのかは、今の自分には分からないが、、こんな美しい情景を、自分の大事な日に見られたことが、その時に自分の大好きな人が自分の周りにいてくれたことが、ただただ嬉しかった。
はらはらと舞い降りる満開の桜の樹の下で、悟空は、暖かい気持ちで満たされていた。
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