「なあ、八戒。珈琲飲みたくねぇ?」
洗濯物を取り込み終わった悟浄が珈琲の催促をしてきた。呼ばれた青年は、渡された洗濯物を畳みながらそれに同意する。
「じゃあ、これが終わったら珈琲淹れましょうか」
同居して2週間、すでに珈琲を淹れる係はこの碧の眼をした青年のものになっていた。珈琲だけでなく、食事全般と言ったところだろうか。それでも以前は食事の用意は二人で分担していたのだが、「八戒の作った飯のほうが美味い」の一言でそれは意味を成さないものになってしまっていた。それでも、気が向いたときには悟浄もキッチンに立ってくれている。
「そう言えば、明日、三蔵さんと悟空さんがここに来るそうですよ?」
「げ?!マジ?八戒いつ聞いたの?」
「手紙が来たんです。僕宛で。義眼の調子と、生活の様子を見に来るとか書いてありましたけど…。」
まったくここは俺んちだっつーの!などとぶつぶつ言いながらせわしく煙草をふかしている姿に「でも、ここが僕の連絡先なんですから」と、いつもの笑顔で宥めながら、お代わりの珈琲を取りにキッチンへ向かう。
「だから悟浄、明日は出掛けないで家に居てくださいね」
二杯目の珈琲をマグカップに注ぎながら、とんでもないことを言った。明日一日絶対に家には寄り付かないでいようとしていた悟浄の思惑は完全に読まれている。
「じょーだんじゃねー!大体あいつらは八戒がいれば良いんだろ?俺がいなくても問題ないだろーが。第一、明日も仕事があるんだぜ?」
悟浄のブーイングに「僕が困るんです」とあっさりと返事が返ってきた。
「僕と三蔵さんですよ?悟空さんが暇を持て余してしまうじゃないですか。僕だって、三蔵さん相手に何を話せば良いか分かりません。せっかく遠くから来てくださるのに、すぐにお帰ししてしまっては失礼じゃないですか」
仕事の方だって、悟浄だったら次の日に2日分くらい稼げますよね?
確かに悟浄の「仕事」というのは、時給いくらというものではなくギャンブルなのだから、1日休んだからと言って困ることはない。
来訪者に妙な方向で気を遣った八戒は、なぜか抵抗できない笑顔で最後のトドメを悟浄にお見舞いした。
「もしも、明日忘れた振りをして出掛けたら・・・。あそこに大事にしまってある悟浄のコレクション、どうなっても保証しませんからねv」
何故か、彼の目にはつかないように隠してあったものを脅しの材料に取られてしまって、悟浄はただ頷くしかなかった。カクカクと首を縦に振りながら、頭の中では新しい隠し場所を検索し始めた。
しばらくぶりに逢う彼らは、相変わらず対照的な表情で悟浄の家にやって来た。ちょうど悟浄が起き出して来た時間、太陽が真南に昇る少し前だった。
「丁度良かった。これから僕達も食事を摂るところだったんです。一緒にいかがですか?」
食事の話を振られて「否」と答えるはずもない。特に、金眼の少年は大喜びで八戒の提案にのってきた。
4人分・・・では足りないだろう。それ以上の人数分の食事を用意するとなると、さすがに人手が欲しくなる。客人を使うわけにはいかないので、支度を整えた悟浄が声を掛けてきた。
「八戒。なんか手伝うことあるか?」
「あぁ、でしたら出来上がったものから運んでくれませんか?」
サラダボウルを手に取るとリビングに向かう。偉そうに椅子に座って新聞を読んでいる三蔵に「よお」と声をかけ、今にも出てきた料理から食いついてやろうかと、金の眼を爛々と輝かせている悟空には「まだ食うんじゃねーぞ、サル!」と言い残してキッチンへ戻る。それを何往復か繰り返した。
「八戒、こっちは準備できたぜ」
「やっりぃ〜!俺もお、お腹ペコペコ」
ようやく支度が整ったところで、八戒の笑顔がキッチンから出てきた。そして、和やかに食事が始まった。
「うンめぇ〜!八戒料理上手だな!」
悟空が嬉しそうに料理を平らげていく。
確かに出て来たものは、寺院の食事に慣らされている三蔵達にとってとても上等なものだ。しかし、三蔵はなかなか食が進まずにいた。
「八戒、わりぃ。そこの醤油とってくんねぇ?」
「八戒、取り皿足りなくなったから持ってくるわ」
「おーい八戒、ここの布巾見当たらねーんだけど・・・」
・・・・・。
消化が悪くなりそうな気分になりながら、それでも三蔵がデザートまで腹に収めたところで卓上の食事はすべて無くなった。タイミング良く「珈琲でも淹れましょうか」と八戒が食器をまとめながら席を立つ。背筋をピンと伸ばした後ろ姿がキッチンに消えたのを紫の瞳が見送り、そこでようやく鬱憤を晴らすべくもう1人の家人に声を掛けた。
「お前ンちは新婚さんか?」
「はあ?」
突拍子も無いことを言われて、紅い眼が落ちそうなほど目をむく。悟空に至っては、話の流れがつかめずきょとんとしている。
「さっきから聞いてりゃ、八戒、八戒って・・・。うるせぇんだよ」
消化不良の原因はこれだった。
いま三蔵の目の前で、食後の一服をしようと咥えた煙草が落ちそうになっているのも気付かないほど間抜けな顔をしている青年は、同居人に声を掛ける際必ず名前を呼ぶ。それに対して、呼ばれた方も当たり前のように受け答えしているということは、この光景が日常茶飯事になっているということだろう。はっきり言って、傍にいるものは居心地が悪くなる。何故か、見てはいけないものを見てしまったような気分になってくるのだ。
一方、そんなことを言われるとは思っていなかった悟浄は呆然としてしまう。確かに意図があって名前を呼んではいたが、そんな風に思われるとは心外だ。
意趣返しはしたとばかりにニヤリと笑った三蔵は、ようやく満足したように袂から赤い箱を取り出してそこから一本引き抜き火を点けた。
「まあ、お前の気持ちも分からないでもないがな」
新しい名前に慣れさせたかったんだろう?
最初は違和感のあった名前でも、呼ばれる回数が増えてくれば自然と慣れてくるだろう。しかし、あまり外出をしない上に新しい土地で知り合いのいない環境では、名前を呼んでくれる回数も少ない。ならば、同居人である自分がその分呼べば良いではないか。―――悟浄の意図はそこにあった。
話は終わったとばかりに三蔵は普段の仏頂面に戻った。しかし、その口角が心なしか上に上がっているように見えるのは気のせいだろうか?その顔を見ていると、バレてしまった悔しさと照れ臭さがフツフツと沸きあがり、悟浄の顔に血が昇ってきた。
次の瞬間
「ケンカ売ってんのか!この生臭ボーズ!!」
のどかな森の中に悟浄の怒声が響き渡った。
「いったい何があったんですか?」
四つのカップをトレイに乗せて珈琲の香りとともにキッチンから顔を覗かせた八戒は、一番素直に答えてくれそうな悟空に向かって問いかける。
たずねられても、いまだ状況がつかめずにいた悟空はきょとんとした顔で
「さあ?レンコンだかシンコンだかが、どうだとか言っていたけど…」
「蓮根ですか?今日のメニューにはありませんでしたねぇ」
でも、蓮根はまだ時期じゃないんですよ。
涼しい顔をして美味そうに煙草を燻らせている三蔵とは対照的に、頭で湯を沸かせそうな悟浄の険悪な雰囲気の傍では、この状況の原因が自分のことだとは夢にも思っていない八戒と「新婚」の意味がイマイチ良く分かっていない悟空がほのぼのとした様子で首を傾げていた。
今後は八戒を街へ連れ出し、友人達に紹介しまくる作戦に変更しようと決めた。しかし、元々人好きのする雰囲気を持つ八戒のこと。あっという間に仲間内の人気者になってしまい、別な心配事が増えるとは、このときの悟浄にはもちろん知る由もなかった。 |