名前・2
 食後の珈琲を飲みながら、悟空が素朴な、しかし当然と言えば当然の疑問を八戒に投げかけて来た。
「なあ、なんで悟浄だけ呼び捨てなの?」
訊かれた方は、ちょっと困った笑みを浮かべて、質問者のほうに視線を向ける。
「なんでって…。どうしてでしょうね、そう言えば・・・。でも、一緒に暮らしているのにさん付けっておかしいでしょう?」
 まるで教え子を諭すような口調で話している八戒を紅い眼に映しながら、「それは俺が言った台詞だろーが」と心の中でツッコみ、同居初日のことを思い出していた。
 悟浄もその日、先程の悟空と同じような質問を八戒にした。しかし、「ご不満ですか?」と笑顔と共に返事が戻ってくるほんの一瞬前、碧の瞳に哀しそうな陰が浮かんだのを見付けてしまったのだ。それでつい、悟浄の方から先程の台詞で締めくくり、うやむやにしてしまったのである。
 八戒の答えに悟空の顔に納得したような表情が浮かんだ。これで丸く収まるかと思ったその時
「嘘をつくな」
 今まで口を出していなかった破壊僧がたった一言で粉々にしてしまった。
「お前、俺に挨拶に来た時から、すでにこいつだけは呼び捨てだったじゃねーか」
「三蔵さん・・・」
ついでに言えば、確か俺が『猪悟能』を捕えに来た時に咄嗟に出たのはさん付けだったぞと続けられ、何でそんな細かいところまで覚えているんですかと、またもや困った笑顔を作り今度は三蔵の方へ向き直る。
「だあぁぁぁぁ!もういーじゃねーか!何が不満だ!」
「不満だよ!!」
このまま問い詰められる八戒を見ているのは何となく忍びなくて、悟浄が口を挿んだが間髪入れずに悟空に返されてしまった。
「だって、悟浄ばっかりズルイじゃん!俺だって八戒と友達なのに、なんで俺にはそんな余所行きの呼び方するんだよ!」
ンだとこのサル!猿のクセに生意気だぞ!と睨みつけたところで、話題の中心になっていた青年が呟いた。
「悟空さん、僕と友達だったんですか・・・」
「なに今更なこと言ってんだよ!俺たち友達じゃん!」
「悟空さん・・・」
「だーかーらー!さんは要らねーってば!」
「じゃあ、これから『悟空』って呼びますね」
「おう!」
 またしても、ほのぼのとした雰囲気を作ってしまった二人の隣では、せっかく出した助け舟をあっさりと転覆させられてしまった悟浄が脱力していた。
「悟空・・・。お前もしかして、八戒に他人行儀に扱われていたのが不満だっただけってか?」
なにを今更、当然と言う顔で悟空の頭が元気良く頷いた。もしかして・・・。と、もう1人の来訪者に視線を向けると、紫の瞳がすがめられた。
「お前も、さっきヤケに八戒に絡むと思ったら、そんな理由だったのか?」
訊ねられた方はフンと鼻をならし、新しい煙草に火を点けているだけだったが、答えははっきりとしていた。
 一方、こちらは感無量といった表情の八戒。
「2人とも・・・。僕、呼び慣れるまで時間が掛かるかも知れませんが、それでも良いですか?」
「じゃあ、今から練習な!」
 それから2人が帰るまで、悟空と八戒の「練習」という名の転校生ごっこのような会話が続けられた。
「だあぁぁぁぁ!うぜえ!そんな呼び方ひとつ、どーでも良いじゃねーか!」
という、悟浄のツッコミをBGMにしながら・・・。

 客人が帰ってから、八戒はシンクに溜まった洗いものを片付け洗濯物を取り込み始めた。通りすがりに、もう1人の家人に声を掛ける。
「何をそんなにヘソを曲げているんですか?」
「ベーつにー・・・」
 散々な1日だった。
 結局、来訪者がこの家を出たのは太陽が西に傾き始めた頃だった。普段だったら、これからが悟浄の行動時間になるので、客人が帰ったのだから、今から出掛けても何ら差し障りがない。しかし、晴れて自由の身になったはずの悟浄は、出掛ける気力さえ無くしてしまいリビングのテーブルに突っ伏してしまっていた。
 ―――八戒は良いさ。久しぶりに、俺以外のヤツと話す機会はできたし、今日だけで(八戒の中では)友達が2人も増えたし・・・。俺なんか、逢わなくても良いヤツと一緒にいなけりゃならないし、ボーズにはとんでもないこと言われるしで、どっと疲れが出ちまったじゃねーか・・・。―――
 もう顔を上げる気にもならなくて、突っ伏した頭の中でブツブツと文句を言っているが、その一方ではたったそれだけのことで、ここまで機嫌が悪くなったことに対して違和感を感じていた。例えて言うなら、大事な玩具を取られたオモシロクナイ気分という感じなのだが、その理由が分からずにいるのだ。
「悟浄・・・」
 どうやら、やるべきことを済ませた八戒が戻って来たらしい。芳ばしい珈琲の香りとちょっと困ったような声がした。そこでようやく、悟浄は顔を上げる。しかし、視線はテーブルの上のハイライトに向いていた。
「1日ご苦労様でした。やっぱりこの家の主人としては、お客様の接待は大変でしたよね。でも、悟空はもちろん、三蔵も満足して帰られたようですよ」
半日掛かって呼び慣らされた名前は何とか様になっている。それがまた面白くなくて、視線を向けていた煙草を引き寄せ、一本引き抜き火を点ける。そんな悟浄の様子を見つめながら「それに」と、言葉を続けた。
 最初の一口を大きく吸い込みながら、チラリと八戒に視線を向ける。
「僕も、悟浄がいて助かりました。僕1人だったら、どうして良いか分からなかったかも知れません」
 そう言って向けられた笑顔につられたのか、ついつい悟浄の方も本来のニヤリとした笑顔を八戒に返してしまった。そこで、どうやら機嫌は直ってきたようだと判断した八戒は「昼食を摂りすぎたので、夕食はちょっと軽いものにしましょうか」と、お替わりの珈琲を取りにキッチンに向かった。

 結局、悟浄の中の「玩具を取られたオモシロクナイ気分」の理由は解明されないまま終わってしまった。しかし、八戒が自発的に悟浄のことだけは呼び捨てにしたことにも気付かなかったので、プラマイ0。と言ったところだろう。
 八戒が悟浄を呼び捨てにした理由。
 それは。
 八戒だけが知っているのである。
てなわけで、「名前・1」の続きでした。
 冒頭の「同居初日」のエピソードは、実は元ネタはあります。山アが里子に出した(しかもオフライン)の漫画でした。
 このエピソードを快く使わせて下さった長月まりりんさんに多謝。
(2002/5/24UP)