と。ここまで聞いても、悟浄が何故そんなに精神的にも身体的にもダメージを受けているのか分からなかった。
そう、この話は、まだ続きがあったのだ。
それからしばらく、八戒は1時には必ず寝室で休んでおり、悟浄もその頃に帰宅し、確認を済ませて安心していた。
そんなある晩のこと。
「あ、ヤベ。鍵置いて来ちまった」
ドアの前で、ジーンズのポケットを探っていた悟浄が呟いた。そう言えば、昨日脱ぎっ放しにしていたジーンズの尻ポケットに家の鍵を入れたままだったのを思い出す。鍵を持つという習慣がまだ付いていなかったためのミス、折角大勝ちしていい気分で帰ってきたのに、最後の最後でケチがついた。
一晩ぐらい、戸外で過ごしても平気な時期ではあったが、やはり家の前まで来てしまうと、このまま朝を迎えるのは癪に触る。ドアが開いていないか、と淡い期待もいだいてノブを回すが、ロックされている手ごたえが残っただけだった。
どうしたもんかとハイライトを一本取り出し、ライターで火を点けようと目を伏せたその時、白いものが目の端でふわりと舞った。一瞬、ぎくりと体が強張ったが、白いものはまだふわふわと舞っている。
確か、あの部屋は同居人の部屋だったはずだ。冷静に「白いもの」を確認すれば、それがカーテンであることに気付いた。室内にあるはずのカーテンが、窓の外でふわふわしている、と言うことは窓が開いているということではないか?短くなった煙草を地面でもみ消し、八戒の部屋に近づく。
予想通り、八戒の部屋の窓は開いていた。恐らく、蒸し暑さに耐え兼ねて窓を開けたのだろう。ここしか、中に入る入り口がないとすれば、ここを通らせて貰うしかない。そう結論付けて、悟浄は窓枠に手をかけて、勢いをつけて地面を蹴った。
「なん・・・っか。泥棒とか、夜這いとかしてるみてえ・・・」
自分の家に入る手段がこんな方法しか取れなかった情けなさに、思わず独り言がこぼれた。そう言えば、泥棒は勿論、女に不自由することがなかったため、夜這いなど今までやったことがなかったな、これが女の部屋への侵入ならこんなに情けない思いにはならないだろう、でも、警察に通報されるな、などとどうでも良いことが頭の中をグルグルと駆け巡る。
足音を立てないように、八戒の部屋への侵入に成功し、ひと心地ついて部屋の中をぐるりと見渡した。八戒がこの部屋に住むようになるまでは、物置として使っていたこの部屋は、ガラクタを詰め込んでいた以前の面影はなくなっており、綺麗に整頓されていた。すっきりとした部屋で目立つものは、テーブルと椅子と、小さなタンス、それからベッド。今は、そのベッドの上がこんもりと山を作っている。
悟浄は悪戯心にかられて、こっそりとベッドサイドに近づいた。
熟睡しているのか、八戒の体は規則に胸の辺りが上下する以外はぴくりとも動かない。今まで、彼の寝顔を見たことはあったが彼を拾って手当てをした時と、雨の中精神的にやられていた彼を家に連れて帰った日。何の心配もなく、ただ「寝顔を眺める」というのは今回が初めてかもしれない、と思い当たった。
碧の瞳が見えている時と今とでは、受けるイメージが結構変わっている。普段は、利発な瞳の色と、しっかりとした物言い、暖かく包み込むような笑顔とで大人っぽく見えるのだが、この安らかな寝顔を見ていると、無防備で幼い印象がある。
「おーお。安心しきった寝顔しちゃって・・・」
そのギャップが可笑しくて、眠っている青年のこげ茶色の前髪に触れようとした。
その時。
―――――カッ!!!―――――
何の前触れもなく、八戒が眼を見開いた。
「目を覚ました」などという生易しいものではない。「眼を見開いた」のだ。それは、「ゾンビにとり憑かれた」表情そのもの。左手を伸ばしかけていた悟浄はそのまま、ズササササササァッ!と壁際まで飛びずさった。その間にも、八戒のゾンビ現象は留まることなく、反動をつけずムクリと起き上がりキッと壁に懐いている悟浄の方にバネ仕掛けの人形のような動きで顔を向けた。
「・・・・・・・・・・・。誰です?」
そう言えば、こんなホラー映画あったよな〜。ここで俺は「Noooooo!」とか叫ばないといけないんだろうか。
許容量が一気に超えてしまった反動で、悟浄の頭の中は、どうでも良い事を冷静に考え始めている。一方、質問の答えをもらえなかった八戒は、ベッドからそろりと抜け出し、ゆっくり、ゆっくり悟浄の方に近づいてきた。
「答えられない、と言うことは正体を明かせない後ろ暗い商売の方と判断いたします」
この家に、しかも僕の部屋から進入して来るなど、良い度胸ですv
眼前に迫る八戒の笑顔。笑顔のはずなのに、元々視力が悪いため焦点が合っていない瞳が、とても恐ろしい。そこでようやく悟浄が我に返った。
「待て!八戒、俺だって!俺!!」
「『オレさん』というお知り合いは、僕にはいません。僕はこの家の留守を預かっているのです。悟浄がいない間に泥棒に入られたなんてことになったら、悟浄に申し訳が立ちません」
だから俺がその悟浄だってばよ〜〜〜〜〜。
弁解したいが、ヘビに睨まれたカエルのように喉に言葉が詰まって出てこない。
優しい微笑みを浮かべて、八戒は拳を握った。
「!! 」
「・・・・・。ダメじゃないですか、逃げたりしたら。折角急所を外してあげてるのに、当たり所が悪くて落とさなくて良い命落としちゃいますよ?」
逃げるっての!
先ほどまで悟浄がいた壁には、八戒の拳がしゅううううう〜、と音を立ててめり込んでいる。いくら急所を外されても、これは、無事ではすまないだろう。
八戒の攻撃は続き、間一髪で悟浄が避ける。視力が悪いはずなのに、的確に悟浄を狙ってくるのが不思議だ。
とうとう、角まで追い込まれてしまった。涙の溜まった紅い瞳で八戒の笑顔が近づいて来るのをただ見つめるしか術がなくなってしまった。
「安心してください。僕は平和主義者なので、命までは取りません。ちょっと貴方が痛い思いをすれば、貴方も更生する。僕も留守を立派に守れることになる。お互いめでたしです♪」
足の指と手の指、どちらが良いですか?希望はきいてあげましょう。
スッと、八戒の細い指先が悟浄の方に伸ばされた。
「待てってば!よく見ろ、俺が悟浄だよ!」
これが俗に言われる『火事場の馬鹿力』というものなのだろうか?、今まで恐怖で喉に詰まっていた言葉がようやく出て来た。それを聞いて、八戒の手がぴたりと止まる。そして、目を細めて恐怖にゆがんでいる悟浄の顔を凝視する。
「あ、本当だ、悟浄ですね。お帰りなさい」
「・・・・・。ただいま・・・」
習慣とは恐ろしい。安心感からヘナヘナと座り込みながらも、いつもの挨拶を返した悟浄に、八戒は陽だまりのような優しい笑顔を向け立ち上がる手助けをするように手を差し伸べた。その笑顔を紅い瞳に映し、今までの恐怖も払拭され暖かい気持ちになる。
ようやく立ち上がった悟浄に「まだ真夜中ですね、ゆっくり休んでください」と廊下に続くドアを開いた。
散々な夜だったが、これでゆっくり眠ることができる。明日の朝、朝食でもつつきながら2人でこんなことになった経緯を話して笑い合えば良い。いつもの調子を取り戻しつつ、「おやすみ」と挨拶をして、暖かい気持ちで床につこうとドアを閉める。
閉めかかったドアの隙間から八戒が「おやすみなさい」と返す。その直後、悟浄はまたしても一気にブリザードの吹雪く極寒の地まで叩き落とされた。
「誤解を解いてくれて良かったです。でなかったら、僕は何も盗るものもない貴方の家を守るために、貴方の指を潰しちゃうところでしたよ」
攻めるなら、やっぱり末端ですね。大した労力も使わず、なおかつダメージは大きいですからv
―――ぱたん・・・。―――
悟浄には、再びそのドアを開けて、今の言葉の真意を問いただす勇気はなかった。
「で、悟浄。どこまでが悟浄の夢の話なの?」
身も心もボロボロと言う風体の悟浄に、悟空が月餅を齧りながら訊ねた。悟浄は、テーブルに突っ伏した顔をそのままに、瞳だけで金眼の少年を睨みつけた。
「全部本当の話だよ・・・」
この、地の這うような悟浄の声を聞いて、彼は嘘をついていないとは信じている。なぜなら、まだ付き合い始めてから短い時間ではあったが、この目の前の男は自分にこんなに弱った姿を見せるような男ではないと悟空は知っているからだ。
しかし。と、悟空は新しい月餅を手にとって考える。
やっぱり、こんな美味しいおやつが作れる八戒はそんなことはしねーよな。
所詮、彼の基準は食べ物であった。
「悟浄、朝食の用意が出来ましたよ」
話題の中心になっていた、この月餅の作り手である八戒がトーストとスクランブルエッグとサラダを乗せたトレイを運んでくる。彼の陽だまりのような優しい笑顔を見ながら、悟空は結論付けた。
―――やっぱり、悟浄の夢の話だよなv―――
悟空が、真実を知るのは、まだまだ先の話である。 |