「三蔵さま、猪悟能のことについてお話が・・・」
執務室にノックの音と共に入って来たのは、寺院御用達の眼科医だった。
眼科医の言葉に、紫暗の瞳が眇められる。
「猪悟能は死んだはずだろう?俺がお前に頼んでいったのは、猪八戒だ」
自分の発言のお陰でいつもと変わらない仏頂面へ不機嫌な空気を纏わせてしまったことに気付いて、眼科医は幾分オドオドしながらも、それでも何とか言い募る。
「いえ、猪八戒ではなく、猪悟能のことでお話があるのです」
どうやら、言い違いではないらしい。再び眇められた瞳は、先ほどとは違い疑問の色が浮かんでいた。
「・・・・・。どういうことだ?」
その日も普段どおり過ぎて行く筈だった。ただ1つ、天気さえ除けば・・・。
いつものように昼頃目を覚ました悟浄に、八戒が「おはようございます」と笑顔で挨拶をして、いつものように2人で食事を摂る。いつものように洗濯物を片付け、いつものように軽い食事を済ませてからいつもの時間に賭博場へ出掛ける。その中に、「今日は夕方辺りから、雨が降りそうですよ」という会話がまざっていただけの話。
その時悟浄は、「そう言えば、ここしばらく天気続きだったなあ・・・」などとぼんやりとは思ったものの、二人が一緒に暮らすようになってから初めての雨だということにも、そう言った八戒の瞳の色がいつもとは違っていたことにも気付かなかった。
―――雨は嫌いだ。彼女が連れて行ったはずの記憶が戻ってくるから・・・―――
1人分の食事の用意をしていた八戒が、その音に気付いたのはもう雨足が激しくなって来た頃だった。
「とうとう降り出しちゃいましたね・・・」
ガラス窓を見ながら呟いた。時刻的にも、もう夜の帳が落ちている。その上、今日は雨雲が空を覆っているため、暗い空がますます暗い。ぼんやりとだが明るい家の中と暗い戸外のお陰で、鏡のようになった窓には自分の姿が映っていた。
本当に自分なのだろうか・・・?
もしかしたらこれは自分の姿などではなく、自分の半分なのかも知れない。ほら、『彼女』の声が聞こえてくるではないか。
―――悟能、やっと気付いてくれたのね・・・。ずっと待っていたのよ―――
花喃だ・・・。ずっと幼い頃から会えると信じていた僕の半分。もう1人の僕。僕を呼んでいる。行かなくては・・・。
何かに吸い寄せられるように、彼は雨の中へ進んでいった。
「やあだぁ・・・。とうとう降り出してきちゃったあ・・・」
カードを覗くふりをして、その豊満な胸を悟浄の肩に押し付けていた女が甘えるような口調で呟いた。
「え?何?」
その柔らかな感触を堪能しながらも、頭の中ではカードの次の手を考えながら悟浄が訊き返す。
「ほら、雨」
店の中がざわついているのと、ゲームの事で頭がいっぱいだった所為でここまでひどくなるまで気付かなかった。
「そー言えば、アイツ雨が降るって言っていたもんなあ・・・」
「アイツって・・・?」
「俺の同居人」
えー!どんな女よ〜!とブーイングが上がったところで、今度は別の女が会話にまざって来た。
「同居人ってあの人でしょ?前に悟浄が拾ったって言う碧の眼をした人。綺麗な顔しているって聞いたわよ、今度紹介してよ」
なんだよ、俺じゃ不満なワケ?などと軽口を叩きながらも、手札は確実に勝利に近づいている。このカードで負けたら、シャレにならない。
そー言えば、アイツと逢ったのもこんな雨の夜だったよなあ、俺を見上げた碧の瞳が細められたんだ。
あの青年は、自分の瞳と髪の色がこの世に彼を繋ぎ止めたと言ったが、助けた方も、あの瞳が目に留まらなかったら助けていなかったと思っている。
雨音を聞きながら彼の瞳を思い出して、無性にあの色が見たくなってしまった。今晩は調子が良かったから、今の時間にあがっても、普段より収入はあった筈だ、このゲームで終わりにしよう。そう判断して、煙草を灰皿に押し付けると、手の内を明かした。
花喃がここに居たはずなのに・・・。一体どこに行ってしまったんだろう・・・。
雨の中へ入っていくと、花喃の姿はどこにも見えなくなってしまっていた。たった今までガラス越しに自分の方を見ていたはずなのに・・・。
そうだ。
花喃は連れ去られてしまったんじゃないか・・・。だから迎えに行くところだったんだ。
「助けに行くから、花喃・・・」
彼はまた雨の中を歩いて行った。大切な人のところへ向かって。
「雨か・・・」
紫暗の瞳を天に向け、三蔵が呟く。
「え?何?三蔵」
その呟きを隣にいた悟空が聞き取って訊ねる。雨の日の三蔵は何となく近寄り難くて苦手である。この質問にも、素直に答えてくれるかどうか・・・。
「うるさい、もう寝る時間だぞ」
やっぱり・・・。
雨の日の三蔵は苦手だが、何となく傍に居たくて就寝の時間になってもこの執務室でおとなしくしていたのだ。しかし、取り付く島もなかった。
「分かってるよ!」
悟空にしてはおとなしめの受け答えをして部屋を出て行く。その姿を見送ってから、もう一度、窓を打ち付ける雨粒に視線を移した。
療養先にしていた眼科医から『彼』のことは聞いていた。そう言えば、彼と住むことになった男にそのことを伝えていなかったことをようやく思い出す。
雨は、未だ、止む気配がない。 |