どのくらい歩いただろう、まだ森の中から抜けられない―――。『彼』は雨の中に消えて行った恋人の姿を求めて、歩きつづけていた。
そのとき、いきなり腹部に鈍い痛みが走った。まるで、何かに切り裂かれたような激痛。
―――早く助けに行かなくてはいけないのに、
こんなところで停まっているわけにはいかないのに―――
それは分かっている。斬られたような痛みのはずなのに、そこへ手を当ててみても、血は一滴も出ていない。しかし、痛みはどんどん増していき、とうとう立っていられなくなり蹲ってしまった。
『それ』を見つけたとき、悟浄は「まさか」と思った。それと同時に自分の体から、「どくん」という音を聞いた気がした。
―――既視感―――
その場所は、まさに、自分が雨の中『彼』を拾った場所ではないか。
嫌な予感がした。抱え起こしたら、彼の腹は真っ赤に染まっているのではないか?今までで2人、「家」から消えて行くのを見送った。とうとう、3人目を見送ることになるのか?
ジーンズに泥が撥ねるのもかまわず、倒れている『それ』に向かって駆け寄った。
倒れているのは、間違いなく、自分の同居人だった。思わず叫び出したくなるのを、ぐっと奥歯を噛み締めて飲み込み、彼の肩に触れる。幸い、どこも怪我はしていないようだ。
「おい、八戒?」
呼びかけると、うっすらと碧の瞳が現れる。しかし、それは空虚で、その瞳に悟浄の姿は映っていなかった。
そして、彼の口からでて来た名前に、疎外感を感じずにはいられなかった。
「―――花喃・・・」
「おい、八戒?」
誰かが呼んでいる。その声で呼ばれた名前が懐かしい気がした。自分を抱え上げる腕と、一緒に降りて来たその声のお陰か、腹の痛みは徐々に薄らいでいた。ようやく、うっすらとだが目を開けることができるくらいには。
こんな風に僕を安心させる人物を、僕は一人しか知らない。
「―――花喃・・・」
ぼんやりと見えている色は何色だろう?
鮮やかなほどの紅
そこまで思い至って、次から次へといろいろなものの記憶が鮮明に戻ってくる。自分の犯した罪、それでも救えなかった女性。本気で殺して欲しいと思ったのに生き長らえている自分。溢れ出るように、たくさんのものが彼の脳裏に映し出されていき、最後に、自分をこの世界に縛りつけた紅の持ち主の名前をようやく思い出した。
「悟浄・・・」
悟浄は、自分の腕に納まっている青年の碧の瞳を見ながら、奇妙な気分になった。今、抱き起こしている人物は本当に八戒なんだろうか?もしかしたら、これは雨が見せた幻で、本物の八戒は今も家の中で自分の帰りを待っているのではないだろうか?
そう思ったとき、『彼』のうつろな瞳に光が戻ってきた。
まず、紅い髪へ視線が行く。
それから、その瞳に様々な感情が映しだされた。怒り・哀しみ・絶望・悔恨―――・・・。
そして、やっと、その瞳が悟浄の顔を映して留まった。
「悟浄・・・」
―――救えなかった―――。
雨の所為だろうか?涙を流さずとも泣くことができるのだと、八戒の顔を見ながらぼんやりと思った。 |