がちゃりとドアが開いた音で、八戒は本のページに落としていた視線をドアに移した。果たして、そこには紅の存在。普段どおりに、ハイライトを燻らせて、本日の同室者が部屋に入って来た。 
       その紅を碧の瞳に映し、無意識のうちに身体の中の緊張が解けるのを感じた。そのままふわりと笑顔を作り、声をかける。 
      「お帰りなさい。早かったんじゃありませんか?」 
       先程降り出した雨が、シトシトと音を立てている。 
       
       
       
       西に向かって旅をし始めてから数ヵ月後。 
       数日間野宿続きだった彼らの眼前に、ようやく街が見えて来た。太陽はまだ傾き始めたばかりの時間だったのだが、地図で位置を確認すると、ここを逃せば夕方までに次の街には着かないらしい。 
       先には進みたいが、野宿はごめんだ。4人それぞれの意見が一致し、本日はここで泊まることにした。 
       取れた部屋は二部屋。いつものちょっとした小競り合いのあと、本日の部屋割りは三蔵と悟空、悟浄と八戒に決まる。 
       早々に腰を落ち着けてしまったため、手持ち無沙汰になった悟浄が出掛けてくると告げて部屋を出て行き、八戒もいつものように送り出した。旅の初めの頃は、その度に「遊びじゃねぇんだぞ」といつもよりも眉間の皺を深くしていた最高僧も、最近では諦めたらしく「テメェにかかった火の粉はテメェで掃え」と黙認している。 
       ジープは長旅の疲れで、八戒の枕を占領しぐっすりと眠っている。普段どおりの日常だった。 
       そして、雲行きが怪しくなったのは、その数時間後。 
       
       
       
       本を読んでいた八戒は周りが暗くなっていたことに気付いた。そんなに時間は経っていないはずなのに、と顔を上げると、今まで気付かなかった黒い雲が視界に映った。低い雲の様子からして、雨が降り出すのも時間の問題だろう。 
       窓の外の、街並みと暗い空を碧の瞳に映しながら、以前、雨に囚われていた頃を思い出す。今でも雨の日が好きとは言い難いが、幾分楽になってきたことは事実だ。そのきっかけを作ってくれたのがその時同居人だった悟浄だ。雨の記憶と一緒に思い出す紅い色。 
       ふと、ジープに視線を移す。暫く走りっぱなしの上、野宿の間も変化していたためか疲れが溜まっていたらしい、起きる気配はない。 
       八戒の耳に、水滴が板を叩く音が聞こえて来る。 
      「とうとう降り出しましたか・・・」 
       そう言えば、今日出掛けてしまった彼は、無事に帰って来られるのだろうか?それとも、もうお目当ての女性を見つけて屋根の下に入っているのか・・・。 
       どうでも良いことまで考えてしまいそうになる頭を振って気を取り直すと、再びページに視線を落とす。 
       その時、ドアを開ける音とともに紅い色が視界に入った。 
       
       
       
       自分のベッドにどっかと座る悟浄を瞳の端に映しながら、カップに珈琲を注ぐ。 
      「もう、何処かの屋根の下にいるとばかり思っていました」 
       八戒がカップを手渡すと、悟浄は一口すすってからベッドサイドに置いた。それから紅い髪をガシガシとかき混ぜながら、気のない返事を返す。 
      「んー。ダメだわ、この街。イイ女も、良い酒場も見つかんなかった」 
       悟浄らしいといえば悟浄らしい。 
       本当は気付いていた。 
       悟浄が雨の日には、早く帰ってくることに。 
       それは、彼の家で同居していた3年間も旅をし始めてからも変わらない。そんな彼の気配りが嬉しくて、八戒はついつい笑顔になってしまう。 
      「悟浄」 
      「んあ?」 
      「僕、もう平気ですよ?」 
      「何が?」 
      紅い眼を眇め八戒の視線に合わせる。 
      「な・・・・・・っ!」 
      突然のことに反応が遅れた。 
       悟浄の左手が、右腕を掴んだと思った途端、引っ張られたのだ。そのまま、八戒の身体は日焼けした腕にすっぽりと収まってしまった。 
      「いつもより、顔色悪りィじゃん」 
      耳元で、悪戯が成功したような笑いを含んだ声が聞こえる。回された腕をそのままに、八戒は深い深いため息をついた。 
      「・・・不本意なんですけど・・・」 
      「ナニ?」 
      「・・・・・・・・・、悔しいですね」 
      何故か、悟浄の腕って安心できるんですよ。 
       そう言っている間にも、悟浄の方は本格的に抱き留めるつもりらしい。くるりと向きを変えられてまるで母親が子供を抱っこするような体勢になる。先程まで背中に回っていた両手が、今は八戒の傷の辺りに掛かっていた。 
       背中に自分のものではない体温を感じる。自分は守られ、それに甘んじていられるような性格でないことは分かっているのだが、こんな時間があってもいいではないか?とさえ思えて来た。 
      「やっぱり、疲れているんでしょうか?」 
      幾分、後ろに体重を預けながら呟いた。くくッと言う笑い声が八戒の鼓膜に響く。 
      「いーんじゃねーの?疲れているときぐらい」 
      「そうですか?」 
      「まぁな」 
      「・・・・・・。でもやっぱり不本意です・・・。ん・・・っ!」 
      「離してください」そう続けるつもりだったのだが、それは言葉になる前に悟浄に遮られた。八戒の唇が彼のそれで塞がれたからだ。唇が離れる瞬間、とどめとばかりに悟浄の赤い舌が八戒の下唇をなめていく。 
       虚を突かれて、唇が離れた後も暫くきょとんとしていたが、自分が何をされたかに思い当たり八戒は己の容貌にみるみる朱を混じらせた。 
      「何するんですか・・・」 
      一方、八戒の珍しい反応を見られたことに満足した悟浄は、彼独特のニヤリとした笑顔を向ける。 
      「俺も疲れてるから、気付けに一口」 
      「僕はアルコールか何かですか?」 
      悟浄とは対称的に憮然とした表情で八戒が返す。それまで、穏やかだった自分の鼓動が、幾分早くなっているのを感じた。外では、まだ雨が降っているはずなのに、自分の鼓動の音で精一杯だ。 
       再び、悟浄の整った顔が八戒の眼前に迫ってきた。それ以上眼を開けていられなくなり、八戒がぎゅっと目を閉じた途端。 
      「八戒〜!悟浄〜!メシ食いに行こうぜ!」 
      やかましいノックの音と共に、不機嫌な三蔵の気を引き立てようと必死にテンションを上げている悟空の声が聞こえて来た。 
       現実的な誘いに雰囲気を壊され、八戒の肩にがっくりと顔を伏せる。八戒の方は、そのお陰で本来のテンポが掴めてきたようだ。 
      「ご飯ですって。これ以上待たせると、悟空の気遣いが無駄になります。三蔵の機嫌を損ねないうちに行きましょう」 
      八戒がするりと居心地の良い腕から抜け出し、ジープを起こそうと自分のベッドへ向かう。その左腕を握ったまま悟浄がストップをかけた。 
      「じゃ、その前に」 
      訝しげに八戒が振り向くと、相変わらずのいたずらっ子の笑顔が映る。 
      「メシの前に軽く一杯。なんって言ったっけ?・・・・・・。アボリジニ?」 
      一瞬何のことだ?考えて、ようやく言わんとしている事に思い当たったらしい。 
      「食前酒のことですか?アペリティフですね」 
      クスクスと笑いながら、仕方がないですねぇ、と再び悟浄の方へ向き直る。 
       徐々に碧の瞳が細められ、悟浄との距離が縮まっていく。 
       二つの影が一つに重なった時、ジープのきゅ〜という寝ぼけたような声が聞こえた。 
      「おはようございます、ジープ。ご飯ですって」 
      眼を覚ましたジープの赤い瞳に、自分の主人が体を起こしながらいつもより穏やかな笑顔で振り向くのが映った。 
       ジープが羽ばたいて定位置につくと、彼は紅い髪の男と肩を並べて部屋を出て行く。 
       閉じられた部屋の中には、静寂が戻った。 
       残されたのは、雨の音のみ。 |