そして、また明くる日。八戒は、バッグのファスナーを閉めて周りを見渡す。どうやら、忘れ物は無いようだ。
昨日は、予想外のハプニングで一日出立が遅れてしまった。その原因になった花は、残念だがこのまま持ち歩いても萎れさせてしまうだろう。ならば、出掛ける前に贈り主の悟空に許可を得て、宿屋のどこかに飾って貰うつもりだ。
そこまで、予定を立てて荷物を持ち部屋を出ようと、ノブに手をかける。だが、それが開かれる前に、ドアが外側から引かれてしまった。ドアの向こうには、明るい茶色の髪をした少年が立っていた。
「八戒!あのね・・・」
「今度は悟浄ですか・・・」
何も言われないまま、悟空に手を引かれて隣の部屋に移った八戒は、ベッドにふて寝している紅い髪の男を見下ろす。
「メシ誘いに来たらさ・・・。起き上がれないって言うんだ・・・」
やや俯きがちに視線を落として、悟空が答える。
「一体何をしたんですか?悟浄」
枕に顔を突っ伏している悟浄の顔を覗き込んで八戒が問いただす。
「んー・・・。頭イタイ・・・」
蚊の鳴くような声でボソリと答えた悟浄はそれだけ言うと、また枕に突っ伏してしまった。枕と顔の間に八戒の細い手がねじ込まれる。
「熱は・・・、ないようですね・・・。だったら、二日酔いかなんかでしょう。自業自得です」
さぁ、起きてください。と言わんばかりに蒲団に手をかける。慌てて、悟空がそれを止めた。
「待ってよ、八戒。体力バカの悟浄が起きられないって大変なことなんじゃないの?」
「大丈夫ですよ。悟浄の場合、殺しても死にはしません、ゴキブリ並みの生命力がありますから」
お互い、病人の前でひどい言い草だ。必死で蒲団にしがみつきながら、くそ〜後で覚えてろよ!と心の中で叫んだが、心の中の叫びなど、二人には知る由もない。
「とりあえず、三蔵に訊いてからにしよーぜ、な?」
なんとか、八戒の両手首を掴んで蒲団から外させた悟空がその手をそのままに、三蔵の部屋に引き摺っていく。
ばたんとドアが閉じられた。静かになった部屋の中に悟浄のぼやきが響く。
「・・・昨日のサルの扱いとはエライ差があるんじゃねーのか?オイ」
「今度は悟浄か・・・」
マルボロを咥え、新聞に目を通しながらボソリと呟く。新聞の陰から紫煙が舞い上がる。
「そうなんです。これ以上足止めできないと言うなら、悟浄を引き摺り出します。どうしますか?」
八戒の隣で、なんで八戒って悟浄には強気なのかな?と思いながら、悟空が神妙な面持ちで事の成り行きを見守っている。
ゆらゆらと、紫煙が昇りつづける。
「・・・・・。一日延びるのも二日延びるのも一緒だろ」
ようやく新聞を畳んで、不機嫌な顔が現れた。本日も宿泊が決定したようだ、ほうと一息ついて、「分かりました」と部屋を出て行った。
「悟浄、三蔵からもう一泊許可が下りました。・・・・・。悟浄?」
再び、悟浄のいる部屋へ報告をしに戻る。静かにドアを開け、声をかけるが、返事がない。
不思議に思い、悟浄の顔を覗き込む。規則正しい寝息が八戒の耳に聞こえて来た。
眠っている悟浄をこんなにじっくり眺めるのは、もしかしたら久しぶりかもしれない。瞼が閉じているだけで、こんなにも受ける印象が違うんだなぁと、改めて感じた。
男らしい顔つきは、見る者を一瞬身構えさせてしまうほど整っている。しかし、彼特有の紅い瞳が現れると、きりりとした印象だけでなく、ガキ大将がそのまま大きくなったような眼の輝きや、くるくると動く表情で周りの人間を楽しい雰囲気にさせてしまうのだ。あの街に居た頃から、女性にもてるだけでなく男性にも顔が利くのはその所為だったのだろう。
ちょっと懐古モードに入ってしまった。とりあえず傍にいようかと、文庫本を取りに一旦部屋へ戻ることにした。
「まったく・・・。貴方達のお陰で読書がはかどってしまいましたよ」
悟浄が眠りから覚め、部屋を見渡すように紅い瞳を動かした。窓、天井、ドアと瞳に映り、最後にベッドサイドに座って膝の上に開いたページに視線を落とす青年のところで止まった。
「八戒?」
「あぁ・・・。目が覚めましたか?おはようございます」
本の中の世界に没頭していた八戒が、まだ覚醒しきっていないようなぼんやりした顔をあげた。ふわりとした笑顔が悟浄に向けられる。
「今何時?」
「貴方にとっては、まだ朝の時間ですよ。さっき3人で昼食を摂ってきたばかりですから」
本を閉じ、椅子から立ち上がる。八戒の細い手が、悟浄のおでこに当てられた。
「頭痛・・・。どうですか?」
「ん?あ、あぁ・・・。・・・・・。大丈夫みたいだわ」
枕から頭を離して、少し浮かせた状態で確かめるようにフルフルと首を振る。
「やっぱ頭痛は寝るにかぎるっしょ」
「て言うか、貴方の回復力のお陰だと思いますけどね、僕は・・・」
ようやく安心したように八戒がくすくすと笑う。その笑顔を見ながらごそごそとベッドから這い出して、身支度を整え始めた。
「なあ、出掛けねー?」
「何言ってるんですか。病み上がりでしょう?」
「へーきだって!せっかく三蔵が出発を延ばしたんだから、街ん中ちょっと見てまわろうぜ、な!」
そう言って、その細い指から文庫を取り上げベッドサイドに置いた。軽く手を引いて八戒を立ち上がらせると、ドアに向かって歩いて行った。
「悟浄」
「んあ?」
「こう言ったらナンですが・・・」
買い出しは一昨日のうちに全て終わりましたよ?
前を歩く男の紅い髪がさらさらと、動きに合わせて跳ねている。それを眺めながら細身の青年が後に続いた。
「・・・だな。持ち手が二人もいるのをいいことにバカスカ重いモンばかり買いやがって・・・」
先日散々良いようにこき使われたことを思い出したのか、前を歩く悟浄が憮然とした顔になった。歩を早めて隣に並んだ八戒が当然というような笑顔を向けた。
「長旅に缶詰はやっぱり必需品じゃないですか?それに貴方のリクエストだったお酒だって、十分重い物だったんですが・・・」
あぁ言えばこう言う。口で八戒に勝とうと思うほうが間違っていたのかも知れない。それ以上何も言わなくても良いように、ポケットからハイライトを取り出して火を点けた。
「で、何処へ行くつもりなんですか?」
ぷはあ、と煙を吐き出しながら答える。
「街ン中って言ったじゃん」
「・・・・・。決まってなかったんですね・・・」
「そーゆーこと!」
はあ、と諦めのため息を漏らした。しかし、こんな風にぼんやりとあてもなく知らない街を歩くのも良いかもしれない。くすりと笑い、それ以上追求せず黙って隣を歩いた。
まだ日が高いためだろう。悟浄がよく顔を出す賭博場も酒場もまだオープンしていなかった。もうそろそろ帰ろうと、八戒が切り出そうとした瞬間、悟浄が何かを見つけたようだ。
「八戒、ちょっとそこで待っててよ」
返事を聞かずに、店の中に入っていく。しばらくすると、細長い包みを持って店からでて来た。
「一体どうしたんですか?お酒なら、この間買ったじゃないですか」
今悟浄が出て来た酒屋の看板を見上げながら聞いた。問われたほうは、彼独特のニヤリとした笑顔を向けて「あー」だか「うー」だかはっきりしない言葉を返し、宿泊先へ足を向けた。
その晩。悟浄が夕食後、八戒の部屋を訪れる。
結局4日も滞在してしまった。本日の晩餐はちょっと豪華な店に入り和やかに進んだ、と言いたいところだが、結局普段通り賑やかな食卓を囲んだ。
「どうしました?」
「どう?一杯」
開けられたドアの向こうで、今日買ってきた細長いものを掲げて見せる。タダ酒を断る理由があるだろうか?にこやかに微笑んで来訪者を部屋の中に招きいれた。
包みを開くと、赤ワインのボトルが見える。そう言えば、先日の買出しの際には、ワインなどという洒落たものは買ってこなかったと、思い出した。
「コップしかねーから、これで良いよな?」
返事を聞く前にコップへルビー色の液体を注ぐ。そのうちの一つを八戒に持たせ、おどけたように「かんぱーい」と掲げた。
ついつられて、八戒もコップを目線まで上げてから、一口含んだ。中々呑みやすい口あたりだ。葡萄の香りと、酸味が口の中に広がる。それから、向かいに座り、美味しそうにコップを空けている悟浄に声をかけた。
「悟浄」
「ん?」
「もうそろそろ教えてくれても良いんじゃないですか?」
「何を?」
「貴方が仮病を使った理由です」
思わず口の中に残っていたワインを吹き出しそうになって、それを何とか飲み下した。変な飲み方をしてしまったため少量気管に入ってしまい、ゲヘゲヘと咳き込む。悟浄は涙目になりながら、目の前で涼しい顔をしてワインを飲んでいる八戒を睨みつけた。
「いつバレたのよ?」
「何年貴方と暮らしていたと思っているんです?貴方みたいな体力自慢の人は、起き上がれないほどの病気になると、その日一日は浮上できないほど落ち込むんです」
タネ明かしを聞いてしまえば何てことない。3年の同居生活は伊達じゃなかっただけの話だ。
できれば、何も言わずにごまかしたい。そう願ったが、自分をじっと見つめる碧の瞳には勝てないようだ。紅い髪をガシガシとかき混ぜながら、渋々と口を開いた。
「・・・・・。今日、何日だか覚えてる?」
「9月の・・・21日ですね」
「この日付に心当たりはない?」
暫し考えたあと、「あ・・・。」と何かを思い出したようだ。確認を取るようにコップに2杯目のワインを注いでいる悟浄見つめた。
「そーいうこと」
碧の瞳が見開かれたと思うと、次の瞬間、嬉しいとも恥ずかしいとも取れるような表情を浮かべた。
「すっかり・・・。忘れていました」
「・・・・・。そんなこったろーとは思ってたけどな・・・」
呆れを通り越して、諦めの表情で悟浄が天井を仰ぎ見る。
「でも、それと貴方の仮病と何の関係があるんですか?」
「んー、・・・。今、俺たちはこんな状況だから、何かできるわけでも何かをあげられるわけでもないんだけどさ、何となく嫌だったんだろうな・・・」
この日を、野宿なんかで迎えるのは。
確かに、一昨昨日の計画で旅を続けていれば、この日は何処かの森の中だったろう。決して表面には出さない心配りが心の中に暖かく感じた。
「で、今日はこれを一緒に呑もうと思ってさ」
八戒の方からはボトルで隠されていたワインのラヴェルを見えるように回転させる。
「僕たちが生まれた年の・・・?」
「ボトル一本くらいだったら、お前と俺でなら一晩で空けられるよな?」
コップの中の液体と同じ色の瞳に向かいに座る青年の姿を映し、再び乾杯をするように左手を掲げる。それをぼんやりと見つめていた八戒が、くすりと笑った。
「ナニ?」
「前にもありましたよね?こんなこと」
「そーだっけ?」
本当に覚えていないのか、はたまたとぼけているだけなのか。どちらともつかない表情からは、悟浄の本音は見出せなかった。
「もう、結構前ですからね・・・」
「そーだな・・・」
気が遠くなるような以前のような気もするがつい昨日のように思い出せる記念日。あの時にも、ここにいて良かったと思えた。この日に自分ひとりだけでなく、誰かが傍にいて良かったと思えた。
おもむろに八戒が席を立つ。ドアに向かって歩いていくスラリとした後ろ姿を不思議そうに悟浄が目で追う。ドアを開けて、柔らかい笑顔で振り向いた。
「他の2人も起きていたら呼んで来ます。やっぱりこういうのは、人数が多い方が楽しいでしょう?」
そう言い残して、部屋から出て行った。一瞬呆気にとられていた悟浄が、名残惜しそうにボトルの中の残量を確認する。
「ま、良いか」
飲み分は減ってしまうが、確かに、皆でわいわいグラスを傾けるのも悪くない。それが彼の希望なら通してやろうではないか。
ドタドタとやかましい足音が聞こえたかと思うと、やや乱暴にドアが開かれる。
「ずりーぞ悟浄!内緒でいーもの呑んでんじゃん!」
「うっせーサル!俺が買った酒を俺がどうしようと勝手だろーが!」
「お前ら、夜中に騒ぐんだったらこの酒は没収だ!没収!」
「何でそーなるんだよ!俺の酒だっつーの!」
「三蔵、オーボーだ、オーボー!」
先程の静けさが嘘のようだ。それまでベッドで眠っていたジープが何事かと顔を上げる。
「すいません、ジープ。、起こしちゃいましたね」
だが、その光景を見つめる飼い主が幸せそうな笑顔をしていたので、諦めにも似た思いで再び長い首をシーツの上に下ろす。
繰り返される何気ない毎日。ここに、自分がいて良かったと思える、ここに自分の存在を感じられる。そんな日を迎えられたことが一番のプレゼントなのかも知れない。 |