「悟空が事故に?」
出立の朝、準備をしていた八戒の部屋へニュースが舞い込んだ。着替えもきちんと済ませて、あとは荷物だけを持てばいつでも出掛けられるようになっていたのに・・・。
「あぁ。なんでも、珍しく早く起きたもんだから、散歩に出かけたんだと」
まったく、慣れないことするからこーいう目に合うんだよ。と、茶化したように言いながらも、悟浄の方も落ち着かないようだ。せわしく、ハイライトをふかしている。
準備の整っていた荷物から灰皿を取り出し、悟浄に手渡した。
「それは・・・。敵が現れたとかそう言うことではないんですか?」
渡された灰皿を右手に乗せて、長くなった灰を落とす。一服吸ってから、思い出すように視線を上に上げながら、「いーや」と呟いた。
「崖を登っていたらしいんだ。で、手を滑らして、地面にストン!と・・・。これも、『猿も木から落ちる』とか言うのかねぇ・・・」
どことなく茶化した台詞が、2人の間を上滑りしていく。どうやら、最後の台詞は、八戒の耳まで届かなかったようだ。両手を自分の体を抱くように組み、左右の肘の辺りでぎゅっと握り締められたこぶしが震えている。
「悟空が崖から・・・」
碧の瞳がゆらゆらと、揺れる。しかし、バッグから救急箱を取り出したかと思うと、くるりと踵を返して向こう隣の悟空の部屋へ向かうべく、ドアをくぐっていく。残された悟浄は、最後の一服を深く吸い込み灰皿に押し付けて、彼の後に続いた。
控えめに叩かれたノックの後、そっとドアが開く。
顔を覗かせた八戒の瞳に、ベッドで横になっている悟空と、ベッド脇まで椅子を寄せそこに座っているの三蔵の姿が見えた。
「三蔵・・・。悟空の様子はどうですか?」
ドアの隙間から滑らせるように八戒が中に入る。その後に悟浄も続いた。
不安そうな表情の八戒がベッドにもぐっている少年の顔を覗き込む。
「・・・・・。寝て、ますね・・・」
「あぁ・・・」
思わず、拍子抜けしてしまった。
それもそのはず、ここまで心配をさせた本人は本当に「寝て」いるだけなのだ。この安らかな寝顔を見ていると、衝撃で動けなくなった、とか、痛みで本調子が出ないため体力を回復させている、とか、そういうことは全く感じられない。ご丁寧にいびきまでかいて熟睡していた。
「どうやら心配はないようですね」
八戒の顔に安堵とも苦笑とも取れない表情が浮かぶ。
「そんなに大袈裟なことでもなかったんだよ。ちゃんと、テメェで歩いて戻って来たんだからな」
短くなった煙草をもみ消し答える。よく見れば、ベッドサイドには吸殻の山を築く灰皿がおいてある。どうやら、自室にあった灰皿をそのまま持参してきたらしい。
「どうせコイツは、食って寝りゃどんな怪我でも治るんだ、ほっておけ」
あんまりと言えばあんまりな台詞にそうですね、と八戒も同意する。しかし、と新しい煙草に火を点けながら、三蔵が言葉を続けた。
碧の瞳がその端正な横顔を窺う。
「今日の出発は延期する」
「え?」
「この馬鹿が起きるのを待っていたら、いつになるかわからねぇ」
そういい終わると、灰皿を手に部屋を出て行った。残された2人は、お互いに顔を見合わせる。
「だそうです」
「んー、最高僧様がそー言うんじゃそれで良いんじゃねーの?」
だったら、俺ものんびりしてよーっと。と一旦閉じられたドアを開け、悟浄も部屋を出る。
「せっかく準備したんですがねぇ」
まだ起きる気配のない幸せそうな寝顔を、眺めながら誰とはなしに呟いた。
結局悟空が目を覚ましたのは、昼が過ぎる頃だった。
「腹減ったー!」
開口一番出た台詞がそれというのが悟空らしい。しかも、今日は朝から何も食べていないのだ。食の欲求が人一倍強い悟空にとって、これは想像以上につらいことだった。
そこへ、タイミングよく柔らかい声が聞こえて来た。
「おはようございます。よく眠っていましたね」
金色の瞳を動かしてベッドサイドに視線を移すと、ページを開いたままの本を膝に乗せた青年の碧の瞳とぶつかった。何か食べますか?ではなく、何が食べたいですか?と訊くところを見ると、どうやらこの状況は予測済みだったらしい。事実、そう判断して悟空が起きるまでそばにいようと、八戒は今までここで読書をしながら様子を見ていたのだ。
「んー・・・。チャーシューがたっぷり乗ってるラーメンが食いたい・・・。それから・・・」
次から次へと上がるリクエストを総て聞き終えると、「分かりました、待っていてくださいね」と八戒が席を立った。
しばらくして八戒が調理を終えて戻ってくると、寝ていたはずの少年が眼をキラキラ輝かせながらテーブルについて彼の帰りを待っていた。一体この小さな体のどこにこれだけの食事が入るのか。テーブルいっぱいに並べられた料理は、あっという間に悟空の腹の中に収まった。
「ごちそーさまッ!八戒が作ってくれたんだ」
「無理を言って厨房をお借りしたんです。賄いさん達の食事を作るのが条件でしたけど・・・」
デザートに出された梨の最後のひと欠片を口の中に放り込んで悟空が幸せいっぱいの笑顔で食後の挨拶を済ませると、それまで黙って隣に座っていた八戒の手が悟空のほおに添えられた。
「何?」
「泥。ついてますよ?」
くすくすと笑いながら、右の頬を強くこする。これだけ食欲があって元気も良いなら、落ちた時の後遺症はなさそうですね、と八戒の瞳に安堵の色が浮かんだ。そこで、今朝の出来事を思い出した。
「ワリ・・・。心配かけちゃって・・・」
「ホントですよ、三蔵も悟浄も心配したんですからね?一体なんで崖なんかに登ったんですか?」
「ん。あれ、取りたくて・・・」
「あれ?」
金色の瞳が一点を見つめる。それにつられて、窓際に視線を移すとコップに入った花が一輪。薄紅色の花びらが風にゆらゆらと揺れている。
「コスモス?」
「コスモスって言うの?あれ」
「知らなかったんですか?」
ふーんと感心したように呟く悟空に、八戒が呆れたように訊き返す。当たり前というように力いっぱい頷かれたが、確かに悟空が花の名前を知っているほうが不思議かも知れない。
「あの花、似てるなあって思って・・・」
「は?」
「八戒に」
「僕に・・・ですか?」
言われた本人は、不思議そうな顔をしているが、初めて見た時本当にそう思ったのだ。
散歩の途中でその花を見つけた。はじめは素通りしてしまうところだったのだ。残影が瞳の奥に残り、柔らかいイメージに誰かを彷彿とさせられて、思わずそれを見た場所まで戻ってしまった。今にも折れそうな細い茎に優しいピンク色の花が咲いている。バランスが悪くて、風に合わせてゆらゆらと揺れていて、危うい感じがした。
―――お見舞いの品ですか?お花なんか良いんじゃないですか?
お見舞いの時だけでなく、花は贈り物の定番ですからね―――
この花の所為だろうか?こんな会話がふと、頭の中をよぎる。それを教えてくれたのは、この花に似ている彼だった気もするし、違う誰かだった気もする。
この花を持って帰ろう。
そう決めて、崖を登り始めた。やっとその花に手が届き、手折ろうとしたが脆そうな外見とは裏腹に中々折れてくれない。今自分が立っている場所は足場が悪いということも忘れて一生懸命引っ張った。次の瞬間、バランスを崩し重力にしたがって地面まで戻ってしまったのだ。
ようやく取れた一輪の花を見ながら、こんな芯の通っているところまでそっくりだ。と思った。
「だから、あれ八戒にあげようと思って・・・」
それで心配させてしまっては、元も子もない。もう一度「ワリ」と呟きしゅんとうなだれてしまった。その声が聞こえているのかいないのか、碧の瞳はまだ窓際に向いたままだった。
しばらく、部屋の中に沈黙が降りる。「悟空」という呼びかけに俯いていた視線を上げると、自分を見つめている優しい笑顔があった。
「僕が貰っても良いんですね?」
「・・・うん」
「花を貰うのはいつ以来でしょうかね」
上目遣いで八戒の反応を窺っている悟空を安心させるように、おどけて片目をつぶって見やる。
勝手な行動を取って自分達を心配させたのはどうかと思うが、それを咎めるのは自分がしなくても良いだろう。「この花を八戒にあげたい」という純粋な想いまで否定してしまうことになりそうだ。
窓辺へ行き、コスモスの花を大事そうにコップごと手に取る。振り向いて「有難うございます」と笑顔を向けた。コスモスの花の上で浮かべているその表情も、その線の細さもやっぱり似ていると思う。自分の目に間違いはなかったと、改めて思った。
その夜、夕食が終わって三蔵が隣の部屋を訊ねて来た。
「まったく・・・。下手な小細工使いやがって・・・」
マルボロを咥え、吐き捨てるように呟いた。言葉自体は厳しいが、それほど怒っているわけではないことが分かる。
「へへ、ばれてた?」
「そんな猿芝居に気付かないのは、あいつだけだろう。でなければ、落ちた時に受身が取れないくらい運動神経がないと思われているかのどちらかだ」
崖から落ちたのは確かだが、ちゃんと着地できなかったとは言っていない。お陰で、怪我はどこもしなかったのだ、本当は。
「大体コスモスなんざ、そんな崖に生えてるわけねぇだろ?ちゃんと気を付けて周りを見れば、きちんとそこへ続く道があったはずだ」
「でも、これでここに留まるちゃんとした理由ができたんだから良いだろ?悟浄にもキョーリョクして貰ったんだぜ!」
すると、三蔵が宿泊している部屋とは反対隣の壁から「コンコン」というノックの音が聞こえた。この壁の向こうにいる紅い髪の男のニヤニヤ笑いが頭に浮かんで、理由のないイライラが募る。短くなった煙草を灰皿に押し付けると、何も言わず踵を返して悟空の部屋を後にした。
悟浄の部屋を挟んだ向こう隣、すでに電気の消えた八戒の部屋の窓には、柔らかい月の光を浴びたコスモスの花が映っていた。 |