最近、八戒の様子がおかしい。
そう思い始めたのは、夏の暑さが過ぎてしばらく経った頃だった。
「何が?」といわれると、上手く答えられないのだが、どこかをぼんやり眺めたり、何か考え事をしていたりすることが多くなった。数回呼びかけて、やっと気がつき瞬時に作られた笑顔で振り向かれたことも少なくない。これはかなり面白くない状況である。
「なんか、あったかなぁ・・・」
いつものように昼過ぎに起き出して来た悟浄は、外で洗濯物をひっくり返している細身の青年の姿を紅い瞳に映しながら1人ごちた。
ここしばらく晴天続きで、雨らしい雨は降っていない。しかし、八戒の様子は確実におかしいのだ。
一緒に暮らすようになってから、この「猪八戒」という男の複雑すぎる内面が段々分かってきた。しかし、それらを一つ一つ確認してみても、今回の違和感にはどのスイッチも当て嵌まらないため、困惑してしまっているのだ。
「なんかあった?」と直接訊ねても良いのだが、「何もないですよ?」と用意された答えが戻ってくるのは容易に想像できる。これまでの経験から、彼の「なんでもない」は信用できないことは学習済みだ。
分かっているのに、何もできない。そんな歯がゆい日々がいつまで続くのだろうか?イライラしながら、煙草を一本取り出す。火を点けたところで、八戒が家の中に入って、悟浄の姿を見止めた。
「おはようございます。いつ起きて来たんですか?」
普段と同じ、ふわりとした笑顔を悟浄に向ける。いつもだったら、安心できるその笑顔までが、作られたもののように感じてしまうのは、ただの勘繰り過ぎだろうか?
「んー、ついさっき。しかし、マメだねー、お前」
「え?」
「洗濯物。普通干しといたら、そのまま乾くまで待てば良いじゃん」
物干し台を指差され、今まで自分が行なっていた動作のことを言われているのだと気付き、あぁ、と納得する。
「そのままでも良いんですけどね。乾いた表面と陰になってしまっている裏面を交換すれば、その分乾くまでの時間が短縮されると思いませんか?」
主婦の生活の知恵のようなことをさらりと言う。こうしていると、普段の八戒だ。先程の違和感も、自分の考えすぎだったのだと幾分悟浄のイライラも取れた。
「ご飯、これから作りますけど、食べますか?」
「あぁ。その前に珈琲淹れてくんない?」
にこりと微笑み、そのままキッチンに消えていく後ろ姿を見送った。今まで自分の知らなかった「生活」をこんな時に感じて、暖かい気分になる。自分では逆立ちしても真似できない甲斐甲斐しい八戒を眺めるのは、嫌いじゃないのだ。
食事の後、「違和感」の理由が解決するのと同時に、面白くない状況に陥るとは知りもしないで・・・。
「悟浄」
八戒が食事の後片付けをして、マグカップに珈琲を淹れて持ってきた。1つを悟浄の前、もう1つを自分の前に置き、ようやく椅子に座る。
サンキュとカップを受け取った悟浄が一口すすり、八戒のほうを窺った。
先程までの笑顔は消えて、何か思いつめた表情が浮かぶ。しかし、意を決したように視線を上げて、真っ直ぐに家主の顔を見つめた。
「相談したいことがあるんです」
一方、キッと見つめられた悟浄は、何を言い渡されるのか緊張した面持ちで次の台詞を待った。
「今度の土曜日なんですが・・・」
そこで一旦、深呼吸をする。
「僕、出掛けて来たいんですけど良いですか?」
・・・・・。思わず脱力してしまった。
何だそんなことかと、口に咥えたまま半分以上灰になってしまったハイライトをもみ消した。
「別に良いぜ?俺、お前が居なくちゃ何もできないと思われるくらい頼りなかった?」
「いえ。そういうわけじゃ・・・」
「言っとくけど俺、お前と住むまでは、ここで一人暮らししてたのよ?」
「そうですね」
最近の八戒の違和感はこれだったのか、と、思わずテーブルに突っ伏してしまいそうになった。心の中がふわりと軽くなって気分が良い。新しい一本をパッケージから取り出し訊き返した。
「んで?どこ行くの?」
訊ねられたほうも、幾分ホッとした表情で珈琲を一口飲んでから、さらりと答えた。
「はい。前に花喃と住んでいた家に行こうか、と・・・」
ライターを取り出し、火を点けようとしたまま動きが止まった。幾分見返す視線がきつくなってしまったのは仕方がないだろう。
「何で?」
「え?」
「お前、今まであそこは行きたくないって言ってたじゃん。いきなりどうした?」
普段通りに会話を続けようとしているのに、心の中が墨を落とされたようにじわりじわりとくすんでくる。
そんな悟浄の変化に気付き、自分が何かしただろうか?と当惑しながらも八戒はポツリと呟いた。
「今度の土曜日・・・。花喃の誕生日なんです」
あそこには、辛い思い出が強く残ってしまったが、それだけではなかったはずだ。二人で暮らしたあの場所で、今は居なくなってしまった女性の存在を祝うのはいけないことだろうか?
結局、幸せにできなかった女性。だからこそ、せめて誕生日ぐらいは祝ってやりたい。
いきなり、悟浄の無機質な声が八戒の耳に響いた。
「却下」
「・・・・・。悟浄・・・」
様子がおかしかったのは、この所為だったのか。起きぬけのイライラなんて比にならないくらい、最悪の気分だ。2.3回、火花を散らして、ようやくライターに火が灯る。
何故、そんなに怒っているのか分からず、困惑したまま八戒が訊き返した。
「何故ですか?」
「そんなことのために、お前あの家に行くのか?」
煙草をふかして、煙と一緒に言葉を吐き出した悟浄の前で、八戒の表情がぴしりと固まる。
「そんなことって言いました?」
「八戒?」
「今、そんなことって言いましたね?」
ゆらりと、碧の瞳が紅い瞳を見据える。普段の穏やかな表情からは想像もつかない激しい容貌。その時になって初めて、悟浄は失言をしてしまったことに気付いた。しかし、一旦出てしまった言葉はもう返らない。
「貴方にとってはそんなことかも知れませんが、僕には大事なことなんです。僕だって、すすんであそこに行きたいとは思いません。でも、花喃の誕生日ぐらい、あの家で祝ってやりたいんです」
今は、もう何を言っても無駄だろう。今更言い繕っても、上滑りになってしまう。ならば、今自分が言えることはたった一つだ。
「分かった。好きにしろよ」
そう言って、がたんと席を立つ。外で頭冷やしてくるわ、と言い残し、ドアを開ける。
ドアを出る前、振り向きざま動かない八戒の背中に呟いた。
「悪かったよ。でも、俺にとっては誕生日なんて『そんなこと』でしかないんだ」
パタンと、ドアを閉じる。
たった一枚の木の板が、もう二度と越えられない、高い壁のように感じられた。 |