悟浄が目を覚ますと、静寂が耳を覆った。八戒は、もう出掛けてしまったのだろう。
モゾモゾとベッドから起き出して、リビングに向かうとサンドウィッチとサラダがラップを被せてテーブルの上に乗っていた。とりあえず食事にしようとテーブルに近づくと、皿の隣に小さな紙切れが添えてあることに気付く。
―――行って来ます。夕食には間に合うように戻ります。―――
たったこれだけの文章が、白い紙に几帳面な文字で書かれていた。
キッチンには、いつでも飲めるように作り置きしてある珈琲のポット。ふと、窓に視線を移すと、広げられた洗濯物が風になびいている。
昨日と同じ風景のはずなのに、たった1人の存在がないだけで家の中が昨日とはがらりと変わってしまった印象を受ける。
珈琲を淹れて、テーブルに着く。ラップをがさがさと外し、サンドウィッチを一口齧る。
「・・・・・。まじぃ」
ここ2.3日、正確に言えばあの些細なことで言い争いになってしまった日から、八戒の食事が美味しくなくなってしまった。
「頭冷やしてくるわ」
そう言って家を出たは良いが、結局博打をする気にもなれず、普段だったら来ることのない店にフラリと入って片隅で呑んで過ごした。しかし、やはり気まずくて帰る気にもなれず、家に着いたのは明け方近くだった。
そのままベッドに突っ伏して眠ってしまい、次に目を覚ますとリビングで物音がする。何とかベッドから抜け出し、物音のする方へ向かった。
リビングでは、八戒が昼食の用意をしていた。自分の食事もきちんとテーブルに乗ってあり、昨日までと変わらない風景だった。
昨日の諍いは、夢だったのだろうか?。そう思い、少し安堵した悟浄のほうへ八戒が振り返って挨拶をした。
「おはようございます」
昨日のことは、やはり現実のことだったのだ。
いつもだったら、自分を映している碧の瞳が今日は灰色の床に向いたままだった。悟浄も食べますか?と問われ、席に着く。
必要最小限の会話しかない食卓。ここまで拒絶されると、こちらとしては、取り付く島がない。
珈琲をすすりながら、ちらりと八戒のほうを窺う。表情からして、怒っているわけではないらしい。しかし、八戒の方も、昨日のことをどう切り出して良いか考えあぐねているのだろう。会話のないことがこんなにつらいことだとは思わなかった。
そして、その状態のままこの日を迎えてしまったのである。
食事を終え、食器をシンクに持って行くと、もう他に何をして良いか分からなくなってしまった。とりあえず新聞でも読もうかと、ソファに寝転んだところで、賑やかなノックの音と共に、元気の良い少年の声がが聞こえて来た。
「八戒〜!八戒ってば〜」
できれば逢いたくないが、この勢いではドアを突き破って入ってきそうだ。その上、叫んでいる相手の名前が1人だというのが気に入らない。ツカツカとドアの前に向かい、幾分乱暴にドアを開ける。
「うるせーぞ、サル!俺んち壊す気か!」
怒鳴られてもびくともせず、きょとんとした顔で金眼の少年が悟浄の顔を見上げた。
「なんだ、悟浄か。八戒は?」
「八戒なら、出掛けてるぜ」
「え〜?いつ帰ってくるの?」
「夕食前って言ってたけどな、それ以外は俺も知らねーよ」
段々イライラして来た。人が落ち込んでいるのに、この賑やかさは一体なんだ!しかも、お前が用のあるのは八戒だけなのか?!次から次へとイタイところを質問してくる悟空の扱いがぞんざいになってしまうのも仕方がないだろう。
「それより突然尋ねて来て何の用だよ?八戒に」
最後の台詞を幾分強調して言ってやった。しかし、こんな嫌味に気付いてしまうのなら、悟空じゃないだろう。訊かれたことに笑顔で答える。
「今日、八戒のたんじょーびなんだって」
―――なんだって?―――
「おい、そんなこと聞いてねーぞ」
「だって、三蔵がそう言ってたよ。な!三蔵」
悟空が確認を取るようにくるりと後ろを振り向いた。
今まで悟空がやかましすぎて、もう1人来客が居るのに気付かなかった。悟空の2.3M後ろでマルボロを燻らして、二人の会話を聞いていたらしい。
「あいつはいないのか?」
「だから、さっきからそう言ってるだろうが!それより、八戒の誕生日って本当なのか?」
「そんなことで嘘を吐いてどうする」
「だからほら、ちゃんとプレゼントにケーキ用意してきたんだ!」
よく見れば、悟空が大事そうに白い箱を抱えている。おそらく、八戒に渡したら一緒に食べて良いと言われてきたのだろう。悟空がここまで八戒に固執するのもよく分かった。
しかし、今はそれどころではない。
「アイツ、そんなこと一言も言ってなかったぞ。ただ、ねーちゃんの誕生日だって・・・」
愕然と呟く悟浄に三蔵が呆れたような視線を向けた。
「あいつらは双子の兄弟だったんだ」
八戒がたった1人愛した女性が実の姉だということは、聞いたことがある。しかし、それが双子だとは知らなかった。
花喃の誕生日、すなわち悟能・八戒の誕生日だったのだ
「八戒は居ないんだな」
三蔵が念を押すように確認をする。
「あいつ・・・、ねーちゃんの誕生日を祝いに前住んでいた家に行ったぜ」
行き先を聞き、一瞬三蔵の顔が強張る。しかし、そうか。と呟いて、踵を返した。
「帰るぞ、悟空」
「え?八戒に逢ってかないの?」
「いつ帰ってくるか分からない奴を待っていられるほど、俺は暇じゃねぇんだ。邪魔したな」
悟空の瞳が、悟浄の顔と三蔵の後ろ姿と手に持った白い箱の間を行き来する。正直すぎる悟空の反応に苦笑しながら、幾分表情を和らげて悟浄が「持って帰って良いぜ」と助言をする。
ぱあっと嬉しそうな表情を浮かべて、慌てて保護者の元へ駆けて行く。白い箱を抱えたまま戻って来た少年に諦めの表情をしてから、視線を悟浄に向けた。
「おい」
あの馬鹿に言っておけ。
三蔵の言葉が悟浄の耳に届いた。にやりと笑って「OK」と片手を軽く挙げる。
それを確認して、金髪の青年は少年と二人で今来た道を帰って行った。
八戒は夕食までには戻ると言った。ならば、時間は少ししか残っていないだろう。
果たしてどうするべきかと考える悟浄の瞳には、いたずらっ子のような輝きがあった。 |