―――ここに来ることはないと思っていた。―――
目の前の寒々とした光景を目の当たりにして愕然とした。
村には自分が彼女といた頃の活気は消えている。人々が出て行った家の中には以前は笑い声が響いていたはずなのに・・・。さすがに、家族が殺された哀しい思い出がある家には住みたくないだろう。あの事件の後、ほとんどの人がこの村を去ったというのを、ここに来る途中に通りすがりの人間に聞いた。教えてくれた方も、まさか話している相手がその原因を作った男だとは思ってもいないだろう。
この村をこんな状態にしたのは自分なのだ。猪八戒は村の入り口に立ったまましばらく足を踏み入れることができなかった。
「そんなことのためにお前あの家に行くのか?」
そう言われた時、心の中にぴしりとヒビが入った気がした。自分と相手の価値観が、一緒だとは思うのは傲慢だと思う。それは分かっていても、彼女のことを「そんなこと」と言われてしまうのは、どうしても耐えられなかった。怒っている、と言うより、自分の想いが相手に伝わらないことが哀しかった。この紅の持ち主ならきっと分かってくれる、そう思ってしまった自分が、彼に甘えすぎていたのかも知れない。
ここしばらく、あの紅を瞳に映すのが恐くて、彼の顔も真っ直ぐに見ることができなかった。
住み慣れた家のドアを開けると、ツンとカビの匂いが八戒の鼻を刺激した。横倒しにされたテーブルやなぎ倒されたスタンドなどがそのままの状態で残っていた。目の前に映された様子が、あの時自分が村人達を次々に殺めていった現場の景色とオーバーラップする。ぐっと何かがせり上がってくる。ドアの脇に背中をくっつけ、2.3度大きく深呼吸をした。それから、意を決したように視線を上げると、家の中に入っていった。
「ただいま、花喃。こんな所に長い間待たせてしまってごめんね」
二人で暮らした楽しい思い出を、粉々にしたままここを去ってしまった。あの時はそれどころじゃなかったし、その後も気持ちが拒否をしてここを遠ざけていた。この日が近づくまで忘れていた振りをした自分に対し、自嘲的な笑みが浮かぶ。もう、戻ることはできないが、せめて室内だけでも前の状態に戻したい。花束を部屋の隅に置いて、散らかった破片を拾い始めた。
壊された花瓶、ちぎれたカーテン、その一つ一つを手にとるたびに彼女との思い出がよみがえってくる。長い時間をかけて何とか室内を取り繕うことができた。
テーブルに花束を置き、以前自分が使っていた椅子に腰をかける。向かい合わせには、彼女の笑顔、ようやく彼の顔に穏やかな笑顔が浮かんだ。
「誕生日おめでとう、花喃」
それまでは、僕は独りだった。預けられた孤児院から自分には生き別れの兄弟がいると聞いた。歳は僕と一緒、双子だと言う。そんなことはどうでも良かった。今僕の目の前にあるのは「僕は独りだ」という事実のみ。両親が何故いないのか、僕には分からない。捨てられたのか、それとももうこの世にはいないのか、それすらも分からない。僕は愛されていたのかどうかさえも・・・。
愛することを教えて貰わず、愛されることを拒んで生きてきた僕はもう1人の僕に出逢った。それまで、想像の中でだけ生きて来た彼女が現実に目の前にいる。
―――君は僕を愛してくれるだろうか?―――
まだ出逢う前、僕は何度ももう1人の僕に問い掛けた。彼女も僕のように愛することを知らないままの人だったら、と不安になったことすらある。その不安の霧が彼女と出逢って一遍に消えてしまった。こんなに穏やかな気持ちになれる自分が不思議でならなかった。
彼女の笑顔が頑なだった僕の心を少しずつ溶かしていってくれたのかも知れない。彼女と出逢わなかったら、僕は一体今ごろどうなっていただろうか?
彼女は僕の愛そのものだったんだ
八戒は、しばらく身じろぎ1つせず、花喃との思い出に思いを馳せた。一体どのくらいそうしていただろうか?太陽の光がゆっくりと穏やかな日差しに変わっていく。もうそろそろ今の家に戻らなければと思い、席を立とうとした。そのとき、彼の言葉がふと頭をよぎった。
「俺にとって誕生日なんて『そんなこと』でしかないんだ」
数日前、背中に投げつけられた言葉。そのときは、真っ黒いものが頭の中を支配していて、何も聞こうとはしなかった。しかし、自分は悟浄の何を知っているだろう?
今までの記憶をたどってみても、それらしい会話をしたことがなかったことに今ごろ気付いた。そう言えば、悟浄の口から家族の話を聞いたことがない。花喃のことを話したのも、悟浄が訊き出したと言うより自分から切り出したような気がする。悟浄は、家族の話を避けていたのだ。
自分のエゴで彼を拒否してしまっていた数日間が思い出される。戻らなければ。
ドアを開けて家を出る前、もう一度振り向いて室内を見渡す。窓から差し込んだ光の中に花喃の姿を見たと思ったのは、気のせいだろうか?
お誕生日おめでとう、悟能。私たち、もう独りじゃないのよ
花喃の微笑みが光の中にどんどん吸い込まれて行き、また元のガランとした部屋に戻った。「行ってらっしゃい」という、最後の言葉を残して・・・。
夕食までには間に合うように戻ります。
そう書き残していたが、ようやく悟浄の家に辿り着いたのは、太陽が隠れてとっぷりと暮れた頃だった。ドアの前で深呼吸を繰り返す。
ドアを開けると、悟浄が真っ直ぐに碧の瞳を受け止めた。そのまま瞳を逸らすのを許さないというように見据えて声をかけてくる。
「おかえり」
「あ・・・。ただいま帰りました」
「メシは?」
「すいません、遅くなってしまって・・・。これから作りますね」
「八戒めんどくせーだろ?だったら、これから食いに行こーぜ」
そう言うと、そのままドアの外に出てきてしまった。先を歩く悟浄の背中を見つめて、腑に落ちない気分になった。それでも、彼の後に続いて今来た道を戻っていく。
普段の悟浄だったら、滅多に入ることのないだろう店。そこは、「呑む」よりも、「食べる」を重視した店だった。そこで食事を済ませ、再び悟浄の家へ向かう。どうも、悟浄のペースにのまれている。昨日まで、ギスギスした感じが2人の間を覆っていたのだが、今はそれがなくなっているのだ。
さすがに、一日歩きっぱなしで疲れたらしい。家に着いた途端ぐったりと椅子に座り込んだ八戒に、キッチンに行っていた悟浄が「呑む?」とボトルを持って戻って来た。未だ調子を崩されっぱなしの八戒は、つい勢いで頷いてしまった。
悟浄がグラスを取りにキッチンに退き返す。再び現れた彼の左手には、3客のグラスがあった。
「どなたか、お客さんですか?」
怪訝に思い、八戒が訊ねたが、「んー」と返事をしたまま向かいの椅子に座ってしまった。
3客のグラスをテーブルに載せて、ボトルの封を開けた。なみなみとグラスに注ぐ。ルビー色の液体と共に、発酵した葡萄の香りがした。どうやら、ワインらしい。
「じゃ、乾杯しようぜ」
悟浄がにやりと笑って、その1つを手に取る。それにつられて八戒も手前のグラスを持ち上げた。
「誕生日おめでとう、八戒」
「!!」
突然言われた台詞に碧の瞳が見開かれる。確かに花喃の誕生日だとは言ったが、自分のことは話していないはずだ。
一口、ワインを口に含んでから、そのグラスの中身と同じ色の瞳が細められ、悪戯が成功したような笑顔を向ける。
「昼間、ボーズとサルが来たぜ。八戒の誕生日だって、ケーキ持ってな」
ようやく、あぁ、と納得する。
確かに、斜陽殿に連行された時、自分の身上を訊かれた覚えがある。その中に生年月日も入っていたはずだ。
ケーキはサルに持って帰らせちまったけど、と、やや決まり悪そうに視線を泳がせてから、「その代わりにコレ」とボトルのラヴェルを八戒に見えるように示した。
「これ・・・」
それは、八戒が生まれた年に製造されたものだった。キッチンを管理しているはずの八戒が見たことのないボトル。と、言うことは、悟浄が昼間のうちにわざわざ買い求めてきたものなのだろうと分かった。
碧の視線をグラスの中のワインに落とし、呟くように口を開いた。
「悟浄・・・」
「ん?」
「先日は・・・」
「・・・・。悪かったな」
自分が言おうとしていた台詞を途中から奪われてしまった。
「誕生日を『そんなこと』なんて言われちゃ、自分を否定されてるみたいで怒るのも当然だよな」
でも、1人だけ祝ったら、きっと怒られるだろ?とテーブルの上で手を付けられないワイングラスを見つめた。
「ねーちゃんだけ祝うなんてしちゃダメだよな?一緒に祝ってやんなきゃ」
彼の存在は彼1人のものではないのだと、認めた上での乾杯だったのだ。自分の中にある、もう1人の自分の存在を気遣ってくれた、その気持ちが嬉しかった。
「誕生日なんて、何をすれば良いか分かんなくて・・・」
こんな感じになっちゃったけど。少し俯きがちに視線を落とし、おどけるように悟浄が呟いた。
「俺のオヤジ、本妻以外にアイジンがいてさ、その間に生まれたのが俺だったわけよ」
俺がオフクロって呼んでたオンナは本妻だったもんだから、俺の存在が許せなかったんだろうな。
否定され続けて育った子供は、自分の存在が疎ましく感じられたのだろう。自分が生まれなければと思っている者にその存在が誕生した日がめでたい筈もない。
八戒が初めて聞く悟浄の告白だった。
誰にも優しい顔をして、誰も受け入れないアンバランスさは、愛されたがっていた子供が愛されて裏切られるのを恐れて身に付けてしまった処世術だったのだ。
今は何も言えない。言葉にしても、上辺だけのものになってしまいそうだ。口を閉ざし、俯いてしまった。
しんと静まり返った部屋に、この場の雰囲気を払拭するかのように「あぁ、そーだ」と悟浄が声をあげる。なにか?と訊ねるように視線を上げた碧の瞳に悟浄の穏やかな笑顔が映った。
「三蔵から伝言」
―――お前は、今、生きているんだろ?―――
過去を振り返ることは悪いとは言わないが、死んでしまったものに囚われすぎるな。今の自分をよく見てみろ。
たった一言の台詞に、どれほどの思いを込めてくれたのだろう。自分が生きて変わるものが自分以外にもあったのだ。
「悟浄」
「ん?」
「僕、もう自分の誕生日は祝えないと思っていました」
「へー、それはワガママなんじゃないの?」
自分の周りには、こんなに存在を歓迎してくれる人々がいるのだ。それを否定してしまうのは、相手にも失礼だ。
テーブルに組んだ両手で目元を覆い、くすっと口元に笑みを浮かべた。
「そうですね」
結局、ワインは一晩で飲み干してしまった。しかし、その空になったボトルは、八戒の部屋に飾られている。そのボトルを見ていると、ふと、あの時の言葉が浮かんでくるというのは、彼だけの秘密である。
―――もう独りじゃないのよ――― |