彼の寝顔を見るのは、何ヶ月ぶりだろうか?
まだ降り続く雨音を聞きながら悟浄はぼんやりと考えた。
あの頃は、いつ彼が目を覚ますか分からないまま、こうやって寝顔を見つめていた気がする。
―――眼を覚ましたら、どんな顔をするんだろう?どんな声をしているんだろう?あの時、俺を見上げた瞳の色は確か碧だった気がする―――
そんなことを色々思いながら、彼の意識が戻るのを、火の点いていない煙草を咥えながら待っていたのだ。あン時が一番肺に優しい生活だったよな、と今更ながらに可笑しくなった。
「悟浄、風邪ひいちゃいますね。行きましょうか」
あの後、八戒はやや蒼ざめながらも自分の足で立ち上がり、そう呟いた。
差し出された手を「大丈夫です」と丁寧に、しかし、頑なに取らずに、八戒は降り続く雨の中一歩一歩確かめるように家へ向かう。
その青年の後に、悟浄は黙って続いた。
雨にかき消されそうな後ろ姿。よろけながらも歩きつづける彼が、外見から受けるイメージほど弱くないのは知っている。しかし、今、自分は何かをすべきではないのか?それが分からないまま後に続くしかないのか?
天から降りてくる水滴のお陰で、八戒の姿がクリアに見えない。
まるで心の距離、そのままに感じられた。
家へ辿り着くなり、とにかく八戒を連れて浴室へ向かった。湯船の温度を確かめてから、ほとんど命令口調で風呂に入るように指示をして、浴室を出る。やや乱暴に閉めたドアから、困惑した八戒の声で「貴方が先に・・・」などと言っているのが聞こえたが、それは聞こえないことにする。
ようやく諦めたのか、水のはねる音が浴室に響く。その音が聞こえてほんの少し安堵し、悟浄は慣れない手つきでミルクの入った鍋に火をかけた。
以前は、自分もやっていたはずの単純な作業がスムーズに行かなくなっているのに愕然とした。自分がそれだけ八戒に頼っていたということなのか?、それとも、それほど自分が動揺している所為なのか・・・。
カップを取りに行っている間に温まったミルクが膨張しそうになっているのことに気付き、吹き零れる直前で慌てて火を止める。見付けたマグカップに移し替えていると、タイミング良く八戒が風呂から上がって来た。そのままカップを八戒に押し付け、今度は自分が浴室へ向かった。
濡れた服を脱ぎ湯に浸かって、悟浄もひと段落つく。段々体の芯から暖かくなっていくのを感じ、自分がいかに冷えていたかがようやく感覚として戻ってきた。
普段と立場が逆なことに今更ながらに気付き笑ってしまったが、次の瞬間いつも八戒はこんなにまめな事をしていたんだということにも気付いてしまい、悟浄の深い深いため息が浴室に響いた。
悟浄が髪に含まれた水滴をガシガシと拭いながら、キッチンに戻るとマグカップは綺麗に洗われ、戸棚に返るところだった。
「ご馳走さまでした。お陰で暖まりました」
そう言って笑う、八戒の表情はいつもと同じだ。しかし、その笑顔が蒼白く映るのは、夜の所為だけではないだろう。
帰路につく間に感じた雨のカーテンが、まだここには残っている。
悟浄は今まで、あまり自分は他人に興味を持たないヤツだと思っていたのだが、今はその距離が何となく面白くないらしい。気付いたら片手でテーブルにあった灰皿を掴み、もう片方の手で八戒の腕を取るとそのまま普段は入らない部屋にズカズカと入っていた。
普段は入ることのない八戒の部屋。自分の部屋とは違い、きちんと整頓させられた室内は彼の性格を良く現している。綺麗に皺ののばされたベッドのところで掴んでいた腕を開放し、横にさせるとその上からばさりとシーツをかけた。
「悟浄・・・?」
「寝ろ」
僕もう大丈夫ですよ?
シーツの中で、困ったような笑顔を見せる八戒に何となくいらついて、ギロリと睨みつける。
「まだ、雨が降ってんのに、お前また外に出るかも知れねーだろ?捜しに行くのもめんどーだし、せっかく暖まったのにまた雨に打たれたら、今度こそ風邪ひいちまう」
だから、見張ることにした。
椅子を枕もとに引き寄せ、ポケットからハイライトの箱を取り出した。しけったそれを、火を点けずに咥える。これでは、もうテコでも動かないだろう。そう判断して、八戒は彼の言葉に素直に従うことにした。
この紅が見ていてくれるなら、多分、大丈夫だろう。
クスリと笑える自分が、なんだか他人のことのように思える。
シーツの中からくすくすという笑い声とともに、悟浄の耳に彼の声が聞こえて来た。
「悟浄」
「ンあ?」
「・・・・・・。有難うございます」
また『僕』をこの世界に連れ戻してくれて・・・。
『有難うございます』
その言葉の理由は分からなかったが、先程の八戒の笑いを含んだ声と、今規則的に聞こえる寝息からは、無理をしているようには感じられない。
とりあえず、今、彼にしなくてはいけないことはできたようだ。起こさないように、細くほうっと息をつき、紅い瞳を八戒の寝顔から窓の外へ移す。
外は、相変わらずの雨。
しかし、小降りにはなってきているようだった。 |